tag:blogger.com,1999:blog-3250611696284913887.post6319476099884793915..comments2017-01-20T14:02:25.686+09:00Comments on Beyond Beyond 躍々日記: 教会の日常性と非日常性 −コメントへの応答ーUnknownnoreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-3250611696284913887.post-49782774183140337412010-06-12T12:46:35.050+09:002010-06-12T12:46:35.050+09:00人間(われわれ)が冒した悲惨な「現実」を忘却の彼方に追いやることをせず、そこで、聖餐卓を囲み、メッセ...人間(われわれ)が冒した悲惨な「現実」を忘却の彼方に追いやることをせず、そこで、聖餐卓を囲み、メッセージを聴き、讃美歌をうたって礼拝を守っているという教会が実際にあることを視覚的に示され、衝撃を受けました。<br />そこがドイツの教会であるということと、その国の大統領ワイツゼッカーが、敗戦40周年、あの「過去に目を閉ざす者は、現在も・・・」との演説をしたこととをつなげて考えさせられました。自分たちの加害者性から逃げない姿なのですね。<br />中道さんのコメントを読みつつ4枚目の十字架上のイエスの絵を見ながら、多分、日本の多くの教会では、柔和な表情の「白人」のイエスの絵画を壁に貼ってはいても、ローマ権力への反逆者、政治犯への処刑方法だったという十字架刑で血を流しているイエスの絵を貼りだしているところは少ないのではないだろうか・・と思ったりでした。<br />今いま、起こっている「現実状況」を無いかのようにして、「わたしたちの罪のために死んでくださった」とさらりと言いながら粛々と進む礼拝の姿が良しとされるなら、ⅩⅤⅠさんがおっしゃるように「“わたしたちがイエスを殺した”というようには考えない」ことに向かうということになりましょう。<br />こうしたことを教会全体で考えあいたい、との思いはありますが、難しいだろうなあ・・・・と思ってしまうカナシイ現実です。<br />1年後、戻られたら、「帰国」報告のような場を持って触発していただけますか?りっちゃん(リリス)noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250611696284913887.post-40852327505786352852010-06-08T02:12:25.079+09:002010-06-08T02:12:25.079+09:00人間がしてきた多くの悲惨なことを口では色々言いつつ本当は自分ではない誰かのしたことと思い
「私たちの...人間がしてきた多くの悲惨なことを口では色々言いつつ本当は自分ではない誰かのしたことと思い<br />「私たちのために死んでくださった」という表現がよくなされるイエスの磔刑も、私たちががイエスを殺したというようには考えないことが、ままあります。<br />そういう意味で、自分達にとって非日常なことも、日常として教会でこそ受け止め続けるべきかもしれませんね。<br />どこの教会でも全面にそういうメッセージがデーンと出ているとちょっとどうかなともおおってしまいますが。<br />教会堂や教会のあり方についてかんがえさせられました。<br /><br />非日常は、日常へ戻っていくためのものだけではなく、日常を考える場所でもあるのかもしれないです。XVInoreply@blogger.com