ドイツに来て楽しみの一つは、教会の中に身を置くということです。歴史のある教会堂、パイプオルガンや他の楽器の響き、賛美歌・コーラスのハーモニー、リタージカルな礼拝の雰囲気、ステンドグラスを通して差し込んでくる光またその光が届いていない暗がりの中に身を置くことで、充実感と癒しを感じます。これらは説教を理解するという理性的で知的なこととは違って、感覚的で体感的なことです。しかし、これがどれほど多くのことをわたしたちに語りかけてくれるでしょうか。
昨日のバッハ・ゼミでも、神の福音をバスが歌うことでそのメッセージが根底的なことであることを訴え、ソプラノとアルトが同じ言葉を繰り返し繰り返し螺旋的に歌うことによって、不安と瞑想を物語っていることを学びました。感覚的で体感的なことが礼拝の中で非常に大切な役割を持っています。
その中の一つのステンドグラスがあります。ステンドグラスは、それを見る人に聖書のメッセージを伝えると共に、色と光の作用によって、教会の中に静けさとまた思索する刺激を与えてくれます。夜は暗闇の中歩む人たちに教会の中からステンドグラスを通して発せられる光と色が安らぎと安心感を与えてくれます。
そのステンドグラスも時代と共に変化しています。特にこのブログではハイデルベクルの現代のステンドグラスについていくつか紹介したいと思っています。
一般の人が教会と聞いて思い浮かべるものの一つがステンドグラスではないでしょうか。そして、多くの人がそのステンドグラスにある一定のイメージを描いていると思います。そこには聖書の中の一場面、聖書の中に出てくる人物特にイエスやマリヤが描かれているというイメージを持ちます。おそらくこんな感じ(右上、右横)ではないでしょうか。
現代に新しくステンドグラスが作られるとき、もはやこのようなステンドグラスのイメージで作られることはまれになってきました。
これらのステンドグラスは、その時代の神学やメッセージに従ってつくられたものです。現代は現代において何を伝え、何を後世に残していくのかということが問われなければなりません。ただ単に何となく教会ぽいということだけではお金をかけても内容的に安っぽいものになってしまいます。
さて、前回ご紹介した聖霊教会は、非常に長い伝統のある教会ですが、そのステンドグラスは非常に現代的なものです。それが、前回のドイツの荘厳な礼拝堂とアフリカのコーラスが独特なハーモニーを醸し出しているように、古いゴシック様式の外見と新しいステンドグラスが結びつき、わたしは最初見たときには感激さえ覚え、その前に立ち尽くしました。また、こういうことがどうして日本でできないのだろうと、悔しささえ覚えました。
この教会に入って最初に右手に見るのが、このステンドグラスです。
さて、このステンドグラスに何を見いだすでしょうか
まず、下から見ていきますと、
・6. 8 .1945 (1945年8月6日)という日付
・赤く壊れていくような球体
・その右上には E=mc2という数式
もちろんお分かりかと思いますが、
・広島の原爆の日付
・その原爆の力とその悲惨さによって壊れていく地球、もしくは原爆によるキノコ雲のようです
・そしてその原爆を生み出すきっかけとなったアインシュタインの公式
つまり、このステンドグラスのモティーフは羊を肩に担いだ牧歌的なイエスの姿でもなく、またファンタジックな天使たちの姿でもありません。
世界の現実の姿がここに描かれていますし、単に歴史的な出来事を物語っているのではなく、未来に対する警告を発しています。
しかし、それは単に社会的な問題に描いているのではなく、その上には二つの聖書の箇所が書かれています。
上部に書かれているのが、
「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペテロ3:10)という新約聖書の言葉。
そして、その下に書かれているのが、
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ54:10)という旧約聖書の言葉です。
さて、この言葉は何を意味しているのでしょうか。
ペテロの言葉は、終わりの日における神の裁きの言葉です。そして、「天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」という言葉は、まさに広島の原爆の熱線と暴風の恐ろしい力を思わせる言葉です。そしてそれは現代のわたしたちに対する預言者的な警告の言葉です。
この言葉とは対照的に、イザヤ書の言葉は、神の憐れみの言葉です。どんなことがあっても、神の慈しみはわたしたちから離れないということです。
現代のわたしたちはこの二つの言葉を聞かなければならいというメッセージです。そして、お気づきになったでしょうか。この言葉が、中途半端に右にずれています。これはこの言葉が外から(←)入ってきていることを示しています。つまり、この言葉は人間自ら語る言葉ではなく、「救いは外から来る」という宗教改革の精神を示しています。この言葉が人間の外から、つまり神によって語られたものであり、人間の中に入ってきているということを表しています。
まだまだ、このステンドグラスには様々なシンボル(秘密)が隠れています。それを見つけてみてください。形、色、場所様々に意味を持っています。
たとえば、聖書の言葉の最後に、3個の同じシンボルが描かれています。それはいったい何だと思いますか。考えてみてください。
このような言い方をして失礼ですが
返信削除「写真」であるにもかかわらず、
今までにない衝撃を受けました。
シンプルな中に深みを感じる色彩・光彩、
まったく新しいモノを見せられた感じです。
そこにどんなシンボルがあるのか、
是非教えて頂きたいと思いますが、
あえて抽象的な表現をすることによって
メッセージを一つに限らないような仕方も
人をひきつける理由なのかもしれませんね。
最後の3つのシンボルは、丘の上の3つの十字架に見えますが、
黒だけでなく赤や青が入っているのは何なのだろう・・・
右側の十字架(?)の赤が、真ん中ものに近づこうとしているようにも思えます。
また、下の球体(地球)は、イエスが抱きかかえているようにも見えました。
で、気になるのが、E=mc2 の右にある水色の模様・・・
聖霊というよりも血や火災のイメージのある赤の中で
唯一、なにか平和の兆しを感じるような色が
そこにあるような気がします。
また教えていただけるとありがたいです。
LIMさん
返信削除いつもコメントありがとうございます。芸術鑑賞の方法として、受容美学という言葉があります。作者が何を意図して描いたか、そこにはどんなメッセージが隠されているかということだけがその絵の真実ではなく、それを鑑賞者がどのように受け入れたかもその絵の真実であるということです。ですから、このステンドグラスもこのように理解しないとけないということもありません。説教も、説教者の真意よりも、会衆がどう来たかの方が大切です。
でも、少し解説を。このステンドグラスの作者はシュライターという方で、最近たくさんの作品を世に出しておられます。
聖書の言葉の最後の印は十字架です。しかも黒で描かれていますから、死を象徴する十字架、墓場の十字架です。これが真ん中の白い線(光)によって、二つに割られています。白はもちろん復活を意味しています。つまり復活の光によって、死の十字架が真っ二つに割られているということです。死に打ち勝った復活の光、その希望を表しています。そして、死や恐怖ではなく、復活の希望こそが最後の言葉だということです。
わたしもすべてが分かっているわけではありません。自由に感じ取っていいんじゃないですか。
でも、LIMさん、遅くまで起きていますね。お体に気をつけて。
では、また違うステンドグラスも紹介しますね。
中道先生
返信削除名古屋中央教会の、早崎貴文(はやさきたかふみ)と申します。
11月18日、名古屋中央教会での説教及び午後の講演会、誠に有難うございました。
ドイツの都市伝道の在り方についてのご講演、誠に興味深く聴かせて頂きました。
さて、講演会後に教えていただいたキーワードで、先生のブログにたどり着き、やっとハイデルベルクのステンドグラスの中身に触れることが出来ました。有難うございました。
実は、この春、バーゼルからオランダまでライン河を船で下るという旅をいたしました。途中、シュトラスブールはじめ寄港地の各地の教会を訪ね、その教会の内外とステンドグラスを写真撮影するのが楽しみの一つでありましたが、この聖霊教会を訪ねた時は、衝撃(少しオーバーですが)を受けました。入ってすぐに目に飛び込んできた、それまでの経験(私の勝手な思い込み)では想像できなかった色彩と構図のステンドグラスです。広島の原爆投下日付とアインシュタインの数式は、すぐに理解できましたので、背景の破壊された地球(のように見える)構図もそれなりに納得できるもののように思われました。ドイツ語で書かれている文面は内容が理解できませんでしたが、しかし、関連するメッセージであるものと想像しました。一方、ドキュメントがステンドグラスの枠内からはみ出していることも気になるところでしたが。
もうひとつは、日本から離れた伝統と歴史の古都の教会が、このような斬新なステンドグラスを制作されたことも驚きの一つでありました。ある種、周りのものとの違和感もあります。
帰国後、インターネットなどで調べてみましたところ、ハイデルベルグ大学の試みで創られたもので、メッセージは聖書の言葉が引用されているところまでわかりましたが、肝心の聖書のどこが引用されているかまではそこに書かれていませんでした。
この半年、疑問のままになっていたことが、先生によって解き明かされ、文末の意味不明の記号(のようなもの)が、引き裂かれた十字架を表していることまでも教えていただきました。誠にありがとうございました。
追記、ブログに書き込みなさった"LIM"さん、E=MC2の右側の水色の部分に眼が行くところなど鋭い観察眼をお持ちですね。ご指摘を拝見し、改めて見直した私の眼には、生命の根源である水をたたえた美しい湖に見えるのですが、いかがなものでしょう。
少々、長くなってしまいました。申し訳ありません。
早崎様
返信削除早速のコメントありがとうございました。
このステンドグラスについてもう一言。
お気づきになったかどうかは分かりませんが、この様なステンドグラスはこの1枚で後のものは伝統的なものかさらに現代的なものになっています。
実は、さらに同じようなステンドグラスを作っていく予定であったのですが、この1枚が議論を呼び、教会を二分する論争にまで発展したのです。
実は、このステンドグラスはハイデルベルク大学の物理学部を象徴するものです。そして次々と各学部が現代直面している問題をモティーフにしたステンドグラスが計画されていました。
ところが、この原爆のステンドグラスを見た物理学部の教授や一部の信徒が、「わたしたちは日常においてこの問題と取り組んでいる。日曜日にまで自分たちが直面している問題を見たくない。むしろ全く違う空間で神の言葉を聞き、そしてまた日常に向かっていく力を得たい」といって、このステンドグラスプログラムに反対し、阻止したのです。
しかし別のグループは「神の言葉は、まさにこの様な日常の問題、社会の問題の中で聞かれなければならない。日常と乖離したところでの神の言葉は意味がない」と推進しようとしたのです。
それで、教会が2つに分かれてしまい.とうとうこのプログラムは頓挫してしまったのです。
早崎さんはどちらに賛同しますか? 名古屋中央教会ではどのような反応をされるでしょうか。
中道先生
削除早速のご指導、有難うございます。
このステンドグラスは、ハイデルベルグ大学の先進性を表しているものと理解しておりましたし、日本ではこのような試みがなされないのは残念なことだなとも感じておりましたが、聖霊教会内の意見が二分されてしまったことについては、「やはり、そういう意見もあったのか。」とも思いました。しかし、そのような中であっても、1枚だけとは言いながら、実行に移されるドイツの人々の素晴らしさを改めて思わざるを得ません。「脱原発」をあのように素早くやってのけるドイツ人の考え方に教えられる気がいたします。
たまたま、ツアーの同行者となった大阪のある大学の退官教授の方とも、この話題となったのですが、「これは、ドイツ人と日本人の民族性の違いとでもいうことで説明がつくことだろうか?民族性の違いとは何だろうか?」とひとしきり話し合ったことでした。(話は、当然ナチのことにまで飛び火しました。)
先生は、どのようにご説明下さるでしょうか?
また、「名古屋中央教会では、どのような反応か?」とのご質問ですが。。。。。。
当名古屋中央教会では、秋の約1カ月間、教会の掲示板の空間を利用して「シオンギャラりー」という、教会員による絵画、書、写真その他なんでもありの展示会を開きます。先生にお越しいただいた時は、丁度その開催中で、私のハイデルベルグのステンドグラスの写真も出品展示しておりました。先生からお教えいただいた聖書の引用を含めた説明を早速写真の横に貼り出しておきました。誰かから何か言われるかなと思いつつ、その時はその人とも議論してみたいことと思っていますが、私個人としては、後者の意見に組みします。
出来ることなら、シュライターさんの作品の一部でも当教会の窓に組み込むことが出来ないかと思ったりします。
今後も、各地の教会のステンドグラスの写真を撮りためていきたいと思っておりますが、これまでのステンドグラスに対する思いを少し変えねばならないとも思わされました。
ありがとうございます。