2010年9月10日金曜日

ドイツのパン

夫婦で時々、日本に帰ったら一番に何を食べたいか、ということを話し合います。寿司、刺身、すき焼き、お好み焼きなどといろいろなものが思い浮かびます。しょうもない話ですが、日本から遠く離れて、そんなことをいいながら過ごすのが、ささやかな楽しみだとご理解ください。

しかし、ある日、日本に帰ったら何を食べたい、といわれて、一番に頭に思い浮かんだのが、「ドイツのパンの朝食」でした。わたしにとっては、ドイツにおいしいものはたくさんありますが、ドイツの朝食をゆっくりと食べるということが何よりも楽しみです。基本3食パンでもかまいません。

焼きたてのいろいろな種類のパン、バター、何種類もの手作りジャム、チーズやハム、ヨーグルト、ミューズリーなど、そしてコーヒー。これがドイツでの一番の楽しみです。

実際はそんなにたくさん食べれられるわけではなく、また最近太ってきたし、昔ほどは食べられなくなってきたので3日前に買ったパンを1枚か2枚を毎日同じジャムで食べていたり、パンを買いに行くのがめんどくさいのでミューズリーにしとくか、ぐらいの程度なのですが、でも時々誰かの家に泊まりに行ったりするとおいしいパンをたくさん買ってきて、食卓に出してくれます。それがたまらなく嬉しいです。

下の写真は、先日、訪問したロイトリンゲンの友人宅での朝食です。

そのパンの中でも一番好きなのが、ブレッツェルです。

わたしたちがかつて住んでいたロイトリンゲンの地方がブレッツェル発祥の地で、わたしたち的にはこの地方のブレッツェルが一番おいしいと思っています。
ハイデルベルクのブレッツェルも違う、またミュンヘンに行くと味も形も微妙に違うわけです。このブレッツェルのいわれは長くなるので、また今度にしますが、ひとつだけ問題です。さて、このブレッツェルのどちらが上でしょうか。


正解(自分ではそう思っている)は、膨らんだ方が上です。まあ、どちらでもいいのですが。ちょっとしたいわれがあって、膨らんだ部分が人間の胸、そしてねじっているのが腕組みしている形だそうです。


あと、いくつかのパンを見てください。ゴマ付き、ひまわりの種入り、6種類の種入り、チーズパン、があります。この他にも芥子の実付き、農家パン、白パン、黒パン、クロワッサン、バケットなど、まあたくさんあります。


いいパン屋は自分のところで焼いて売っています。朝の6時頃には開いていて、みんな朝早くから買いに来ます。やはり工場で大量生産して配達されるパンは残念ながらいまひとつです。パン屋によっても焼き方や大きさ、味が違います。パンの名前を覚えて、スムーズにパンを注文できるまで数年かかりました(わたしだけ?)。


日本で朝だけドイツのパンを食べられたらどんなに幸せでしょう。でも、このドイツの雰囲気の中で食べるからおいしいのかもしれません。

2010年9月9日木曜日

リッター・スポーツ・チョコレート

最近、真面目な話題が続いたので、、、ちょっと休憩。

休憩といえばお茶。お茶といえばチョコレート。チョコレートといえばスイス。

スイスのリンツ・チョコレートは有名ですし、先日紹介したベルギーのチョコレートもなかなか負けていません。

では、ドイツのチョコレートといえば、なかなか思いつかないと思います。最近、日本のスーパーでも販売されるようになった、リッター・スポーツ・チョコレートというのがあります。特に高級チョコレートというわけではなく、いわゆるスーパーや駅の売店で売っているチョコレートです。

このチョコレートの発祥の地が、先日訪問していたロイトリンゲンから小一時間ほど車で走ったところにあり、友人家族に連れて行ってもらいました。

博物館も四角いチョコレートを連想させる建物
このチョコレート工場には博物館と直売コーナーがあります。博物館はさておき、お目当ては直売コーナー。市販されているものよりも二割ほど安く買えますし、試供品、詰め合わせセットとなると格安値段です。一袋に20数個のチョコレートが入って、1000円程度です。
あれも、これもと買ううちに、かご一杯になりました。うぅ〜ん、ダイエットしなければいけないのにと思いつつ、もう一つ、もう一つと手が伸びていきます。
日本に帰っていった家族がだいぶん持って帰りましたが、冷蔵庫の中はまだチョコレートで一杯です。でも、逆にたくさんありすぎると、食べたくなくなってしまいます。

2010年9月8日水曜日

ジーガー・ケーダー神父 5 ローゼンベルク教会祭壇画 (4)

さて、一つの祭壇画の最後の絵(右側)ですが、左の2枚の絵に比べて少しわかりにくいかもしれません。しかし、ここには様々なモティーフが隠されています。
何がこの絵に描かれているでしょうか。上から見てみると。

赤い螺旋状の動きの中に男の人と女の人、その周りには城壁。

中央の大きく描かれた男の人が最も重要だと思われますが、

  • 顔は上の赤い部分に溶け込んでいるようです。
  • 上半身は裸ですが、脱いだというよりも消えかかっているような感じです。
  • 首からはホタテ貝をぶら下げています。
  • 手には仮面を持っています。
  • 下半身の服からこの男はピエロのようです。
  • 男の横には、墓があります。
  • その墓の前には、前半分(上)と後ろ半分(下)を区切るように壁がありますが、その壁の一部がまるで外国のような形をし、ちょうどそのところが割れています。

この絵は、最後の審判を表したものです。ヨーロッパの多くの絵では、最後の審判は大勢の人が描かれ向かって右の人が裁かれ、左の人が救われているます。ミケランジェロの最後の審判をご覧ください。



これに比べてケーダー師の絵は一人だけです。つまり一人一人の最後の審判があるということ、最後の審判を自分のこととして考えるということです。

彼の衣服は貧しいもので、また道化師の格好をしています。それが消えているということは、そういう衣服が人間の価値を決めるものではないことを示し、そして裸の自分自身というものがさらされるということです。また、彼が仮面を外しているのも、これまで人前でつけていた仮面、自分をごまかしていた仮面、本当の自分ではなく、人から押しつけられたイメージによる自分という仮面を外すことが出来る。そういう仮面を外して神の前に立つということが描かれています。

彼の後ろにある壁は、墓場を囲っている壁です。死を象徴する骸骨の形をしたその壁が壊され、死の力が打ち破られていることが分かります。

彼の顔が包まれている赤い光は、まるでバラの花のようです。ケーダー師の絵ではバラの花が重要な役目を果たしています。そのバラの光の中に描かれているのが、ヨハネ黙示録の「新しいエルサレム」です。その中に花嫁と花婿がいます。聖書では花嫁がエルサレム、花婿はイエスを表します。そして、一つになるという結婚の喜びと確かさの光に、この男の顔、そしてからだは包まれ、その境も分からなくなっています。

最後の審判は、ここでは裁きというよりも、裁きという刀や光で、わたしたちに絡みついているもの(死、偏見、抑圧、疎外、孤独)がそぎ落とされ、ありのままの自分が神の光の中に受け入れられるという「解放」のメッセージが描かれているようです。神の裁きは、わたしたちの一つ一つの悪行に対する怒りではなく、わたしたちをダメにする力に対する怒りではないでしょうか。それを受け入れる人にとっては、わたしたちの縛り付ける鎖を断ち切る斧のようなものです。

今一度、この祭壇画の全体を見てください。もっと多くのメッセージを受け取ることが出来ると思います。この祭壇画の前で説教はいらないかもしれません。




2010年9月7日火曜日

ジーガー・ケーダー神父 4 ローゼンベルク教会祭壇画(3)

祭壇画の真ん中には復活を象徴するエマオ途上の物語(ルカ24:13−35)が描かれています。二人の弟子が、復活したイエス(だとは気づかずに、一人の男)と共に食事をしている場面です。ジーガー・ケーダー神父はイエスを明確には描きません。むしろイエスの周りにいる人がどのような表情をし、その人にいったい何が起こったのかを描くことで、イエスとはどういう人であるかを表現しています。この前に紹介した中世の画家たちは「父と子と聖霊」を描くことで、三位一体論を表現しようとしましたが、ケーダー師はイエスの周りの人間を描くことでキリスト教のテーマを描いているわけです。


さて、この絵の中で「イエスの誕生物語」の色彩(青)と、右隣の「新しいエルサレム」の色彩(赤)とが出会っているというか、移り変わっているのが分かります。そしてその真ん中には復活を表す白い光が描かれています。
そこにはイエス自身は描かれていませんが、そこに置かれたワイングラスとパン、また赤い弟子が語りかけるように見上げている目線で、そこに誰かがいることが分かります。もしくは物語通り、弟子たちがこの人がイエスだと分かった瞬間に見えなくなってしまったとも言えますが、しかし、そこにはしっかりと復活の光が描かれています。

手前には、3つの書物が置かれていますが、右手前からイザヤ53:5の苦難の僕の言葉、その奥にはルカ24:26のメシアの苦しみの意味の言葉です。そして左にはプラトンの『国家』の1節で「不義を愛するものは、義なるものを苦しめ、十字架につける」(抄訳)ということが書かれています。なぜプラトンかということは、別の絵との繋がりがあります。つまり、旧約、新約、ギリシャ哲学がキリストの十字架と復活の意味を言い表している子とをこの3つの本で表現しています。

青い服の弟子の背後には、ゴルゴダの丘の3つの十字架が描かれています。そしてその前には、今まさにここで食事をしている弟子たちが道を歩きながら話をしているシーンが描かれています。興味深いことに、この二人の後ろには3つの影があり、その真ん中の影の頭には円光が描かれています。もちろん、弟子たちが誰だか分からなかったイエスです。

右側には、この宿屋から旅立っていったこの二人の弟子たちの姿があります。一人は復活の光を表すイースター・キャンドルをかかげ、もう一人は冬の後春に花が咲いたアーモンドの木の枝,つまり新しいいのちの象徴をかかげて、喜びに満ちています。

これは聖書物語の再現画、聖書の挿絵ではありません。ケーダー師によるキリスト教解釈の絵です。このことは、この後の絵で、もっと重要なモティーフになっていきます。
グラスもパンも、ロウソクも現代のものです。だからこそ、わたしたちに問いかけてくるものがあります。

ジーガー・ケーダー神父 3 ローゼンベルク教会祭壇画(2)

まず、開かれた祭壇の左側のイエスの誕生場面を見てください。
中央にはイエスを抱いた母マリア、その下には飼い葉桶、赤ん坊をのぞき込む羊飼いの娘とその上に星が輝いています。左奥には眠っているヨセフ、つまり夢を見ているヨセフがいます。ヨセフは夢を通して、このこどもに隠された真理そしてその運命が示されまあした。その夢見るヨセフは、夢解きでエジプトを救った族長ヤコブの子ヨセフを思い起こさせます。
絵の下には「エッサイの根」から生え出でたひこばえ(ダビデ王)を表すクリスト・ローゼが描かれています。イエスの飼い葉桶を支えているのがダビデ王です。
単に旧約との関係だけではなく、飼い葉桶の板には「INRI」という文字を見ることができます。これはイエスの十字架の上に釘打ちつけられた板「ナザレのイエス、ユダヤの王」(INRIはそれぞれの言葉の頭文字)であり、すでに飼い葉桶にイエスの十字架が暗示されています。
飼い葉桶だけではなく、この家畜小屋の屋根を支える柱が十字架を示していることが分かります。
今優しく母に抱かれているイエスが、十字架の死後もう一度母マリアの膝に抱えられることになります。

この絵の光は右上の星から放たれているようですが、絵の中心のイエスから光が発せられ、外枠の方に行くに従って暗くなっています。

2010年9月6日月曜日

ジーガー・ケーダー神父 2 ローゼンベルク教会祭壇画

多くの祭壇画は折りたたみ式というか左右に一枚ずつ開閉することが出来る絵があり、閉じたときと、開いたときでは別のモチーフの祭壇画になります。下の2枚の写真を見比べてください。
これは,すべてを開いたときのものです。向かって左からイエスの誕生、中央に復活を表すエマオへの道での食事の場面、そして右が最後の審判・新しいエルサレムが描かれています。

次に、両翼の絵を閉じたときの祭壇画です(本の絵をカメラで撮ったので少し画質が悪いですが)。左からイエスの受難、真ん中が十字架から降ろされたイエス、そして右がいなくなった息子たちのを思い嘆くラケル(エレミヤ31:15)が描かれています。なぜラケルなのかは,少し説明が必要でしょう。

その季節の礼拝のテーマ、教会暦に従って、絵のモティーフを変えていくわけです。

そして、この祭壇画の中央下には一本の道をはさんで立っている二人の男性がいます。

まず、この一番下の絵は、この教会の歴史を描いています。中央にまっすぐに伸びているのがホーエンベルクにつながる巡礼の道です。右に立っているのが、十二使徒の一人、ゼベダイの子ヤコブです。帽子につけているホタテ貝が彼の象徴です。伝説ではスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラにヤコブの死骸が祀られており、エルサレム・ローマに並ぶキリスト教の三大巡礼地になっています。『サン・ジャックへの道』(クリック)(サン・ジャックはフランス語で聖ヤコブの意)という映画を見られた方もいらっしゃるでしょうか。ドイツでも巡礼の道には巡礼者を象徴するホタテ貝をレリーフした道標があります。聖ヤコブの後ろに夕日で照らされているのがサンティアゴ・デ・コンポステーラです。
左にいるのは、1690年にこの地に十字架を立てたフィリップ・イェニンゲン神父です。彼の前の柱は十字架の縦柱で横柱の陰が彼の顔に映っています。
このどちらもが中央のキリストの十字架と復活を仰ぎ見ています。