現在、1つのゼミナールと2つの講義に出席しています。
ゼミナールのテーマは、「オータナティブな礼拝」で。ドイツの伝統的な礼拝形式とここ数年ドイツの中で注目されている新しい礼拝形式を比較し、また新しい礼拝形式の特徴、その背景、神学的意味を学んでいます。
講義としては、ロア教授の「19世紀以降のドイツ教会史」とタイセン教授の「解釈学 現代社会における新約聖書理解」です。
ドイツの大学の講義は、Vorlesung(フォアレーズング)といってVor(前で)lesung(読む)という名前の通り、教授は自分が用意した講義原稿をひたすら読んでいます。もちろん、理解を深めるために、自由に話されることもありますが、1時間30分しゃべりっぱなしです。
タイセン教授は、授業10分ほど前にやってきて、黒板全面に今日の講義のアウトラインを書き、それに基づいて講義を進めていきます。
ロア教授は、昨日は黒板にある人物のわかりにくい名前を書いただけです。時々資料を配ることはあります。
レジュメ、パワーポイント、視聴覚教材、なんて関係ありません。
ただひたすらしゃべる。機関銃のようにしゃべる(外国人にはなかなかつらい)。
学生はというと、教授が語るのをひたすらノートしています。
私語は全くありません。
遅刻、早退なんて考えられません(でしたが、最近はちらほら)。
ただし、飲み物は自由です。お腹がすいたらリンゴでもかじっています。
分からないことがあれば、すぐに手を挙げて質問しています。教授もそれに快く答えてます。
講義が終わると拳で机を叩いて感謝します(抗議ではありません)。
ドイツの学生は基本的によく勉強していますし、自覚的ですし、積極的です。単位を取るというよりも、そのゼミや講義の内容を自分のものにするという意識がとても高いように思います。
わたしは、早口で話される講義をドイツ語でノートした方がいいか、もしくは日本語で書いた方がいいか迷っている内に、どんどんと進んでいく講義に引きずられているような感じです。全然眠たくありませんし、退屈しません。
ただ、10年ぶりにドイツの大学に出てみると、やはり時代の変化を感じます。
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目の前の君、君、講義中何やってたの? |
多くの学生がノートパソコンで授業のノートを取っています。(と思いきや、インターネットを見ている学生もいます)。
昨日は久しぶりで日本の古典的なサボり手段を見ました。いわゆる携帯型音楽プレーヤーをポケットにしのばせ、服の中からイヤホンを出し、まるで肘をついて授業を聞いている振りをしてイヤホンのコードを隠していました。その横の学生は、途中から机にうつぶせになって寝ていました。
本人は分からないつもりかもしれませんが、実は講壇からは不審な行動、姿勢はよく分かるものです。
いや、こんなことは昔なかったんだけどなあ、やっぱり時代は変わってきているのかと驚いた次第です。これもグローバリゼーションのなせる業でしょうか。その内に授業中にマンガを読み出す学生も出てくるかも知れません。