2010年9月18日土曜日

Studentenfutter (学生のエサ) ドイツ知力の源?

わたしたちが週に2,3袋買うお気に入りの食べ物が、この Studentenfutter(シュトゥデンテン・フッター、学生のエサ)というスナックです。学生のエサということですから、勉強の合間に、勉強中にちょっとつまむスナックなわけです。


この中には、アーモンド、カシューナッツ、ピーナツと干しぶどうが入っています。


これらの食品は集中力を高める効果があり、消化のよい炭水化物、鉄分、なんとω−3脂肪酸(オメガ−3)含まれています。ω−3脂肪酸、これは中性脂肪を下げ、血圧を安定させる効果があるそうです。そしてこのω−3脂肪酸の欠乏が脳の構造に変調をきたすということです。

クソーッ、これがドイツ知力の源か!? これを食べるとドイツ語が上達するかも!?

ジャンクフードばかり食べている日本の学生は負けてしまうぞーっ!

でも、豆を食べながら勉強していると、そっちが止まらなくて、勉強が進まない。

2010年9月17日金曜日

世界一狭い道 ロイトリンゲン

ドイツ(おそらくヨーロッパの各国でも)では、すべての道に名前が付いています。日本のように一つのブロックが「○○町1丁目」というくくりで表現されるのではなく、道という道に名前と番号ついいます。ですから、結構家や目的地を探すのが簡単です。基本的には、その通りさえ分かれば、番号を順番に探していけばいいわけです。

わたしたちが以前住んでいたロイトリンゲンという街に「世界一狭い道」があり、その通りにも名前が付いています。
ロイトリンゲン市がつけた看板
「世界で一番狭い道 幅31センチ」

なんとその幅は31センチ。人間がようやく一人通れるぐらいです。通れない人もいると思いますが、、、。

一見すると、これって、家と家との隙間じゃないのと思いますが、れっきとした道です。
反対から見るとこんな感じ。


この道にも名前が付いていて、Spreuerhofstr. (シュプロイアーホーフ通り、もみがら広場通り)といいます。


この通りを抜けると、そこは「日本・中華レストラン 銀座」だった。

意外にも、日本とつながっていたわけです。
回転寿司レストラン(Ruuning Sushi)です。

2010年9月16日木曜日

日本のキリスト教の源泉 パリ・モンマルトルの丘

パリのモンマルトルの丘といえば、芸術家たちの街として知られています。ピカソやモディリアーニがモンマルトルの丘の安アパートで過ごし、芸術活動の拠点となっていたことで有名です。




現在もたくさんの芸術家たちがこの丘で絵を描いています(観光用?)。








元々は修道院のある丘で、修道女たちがワインを作っていたことから、この辺り一帯がパリの有名な飲み屋街になっていきます。
このモンマルトルの丘の麓にムーラン・ルージュなど有名なキャバレーがあります。













さて、このモンマルトルの丘こそが、日本のキリスト教の源泉であることをご存じでしょうか。

日本のキリスト教といえば、フランシスコ・ザビエル。
ザビエルといえば、イグナティウス・ロ・ヨラ、イエズス会。
イエズス会といえば、モンマルトルの誓い。


そうです、このイグナティウス・ロ・ヨラとフランシスコ・ザビエル等他の修道士が、1534年8月15日、このモンマルトルの丘で、神に自分の生涯を献げるという「モンマルトルの誓い」をたてたのが、イエズス会の始まりでした。その場所に現在はサクレ・クール聖堂(聖なる心・聖心聖堂)が立っています。

サン・クレール聖堂の上から見たパリの街
遠くにエッフェル塔が見えます。

2010年9月15日水曜日

ジーガー・ケーダー神父 8 ローゼンベルク教会祭壇画 (7)

ケーダー師の祭壇画を見てきましたが、今一度二つの絵を比べてみてください。


よく見ると、両方の絵の構図が、赤と青の色に導かれて似通っていることに気がつきます。

イエスの誕生の場面には、死を表す十字架

復活を経験した弟子たちの場面には、イエスの死を経験した人たちの姿

最後の審判で解放を経験する場面には、こどもを失って嘆くラケルとその慰め
特に顔は上の神の愛の光の中に包まれていく男の顔とよく似ています。
新しいエルサレムと神の手は色は違うけれども同じもののように見えます。

これはどのように理解し、解釈するかはわたしたちに任されています。

ジーガー・ケーダー神父はこの絵の中で4つの場面を描いています。

(1)旧約聖書の世界、旧約聖書の物語

それが
(2)新約聖書、イエスにおいてどのように成就したか

そして、それが
(3)ドイツ(この地域)の歴史の中どのような意味を持っているのか

そして、最後に
(4)この絵を見ているあなたにとってどのような意味があるかということです
これは、わたしたちに任されている解釈です。

むしろ、わたしたちは(4)からこの絵を理解し始めることが必要かもしれません。つまり、いまのあなたの問題はなんですか。そして、あなたはこの絵のどこに自分自身を見つけますか。そして、それがこの絵への入り口、聖書への入り口になります。

ジーガー・ケーダー神父の絵は、キリスト教の教えや聖書の物語を伝える「信仰的な絵」ではなく、わたしたちの人生の中にイエスを見いだすことができるという彼の信仰の描いたものだと言えます。

2010年9月14日火曜日

ジーガー・ケーダー神父 7 ローゼンベルク教会祭壇画(6)

いよいよ最後の右翼の絵です。
この絵は、一見しただけでは何をモティーフにしているのかよく分かりません。真ん中の女性が嘆いているようですが、青い服を着ていないので、母マリアというわけではありません。

彼女の後ろには、こどもを抱きかかえている3人の女性がいます。

この女性はエレミヤ31:15に書かれているラケルです。

ラマで声が聞こえる、
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。(31:15)

ラケルは、ヤコブの妻でヨセフとベンジャミンの母親です。そして、長い間こどもに恵まれなかったラケルからようやく生まれたヨセフは、他の兄弟たちの反感を買い、エジプトに売られていくことになります。母ラケルの息子を失った苦しみを、預言者エレミヤが、バビロン捕囚でこどもたちを奪われてしまった母親の苦しみとして登場させているわけです。

エレミヤ書ではこのラケルに対して、次のように言われています。

泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられると、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰ってくる。

ここには、具体的にはバビロンからこどもたちが帰ってくることが具体的に示されています。
そして、このモティーフがマリアの嘆きの横に置かれているのは、ラケル、イスラエルの母たちの苦しみとマリアの苦しみが同一視されていると言うことです。

そして、それは聖書の世界にとどまるものではありません。

実は、この母親の嘆きとまた希望は、この地方の母親たちが戦争中に経験したことでした。戦争のなんから逃れるために、たくさんの母親とこどもたちはこの地方に疎開していたのですが、もとの故郷に帰ることは出来ませんでした。しかし、彼らはこの地方に再び自分たちの故郷を見いだし、ここに住み始めたわけです。彼女たちの後ろには、雪の中疎開している様子が描かれています。

ラケルの苦しみ
  ↓
捕囚を経験した母親の苦しみ
  ↓
イエスの死を経験したマリアの苦しみ
  ↓
戦争で故郷を失った母親たちの苦しみ

という繋がりが描かれています。


そして、そこにはどれも具体的な希望の約束とその実現があります。イエスの十字架と共に描かれることによって、その希望はもっと確実なものとなります。

そして、それがラケルの左のバラの花に象徴されています。このバラの花と対になっているのが、左翼のイエスの十字架の下の方に描かれている茨と白バラです。この白バラは、イエスの血によって赤バラ(愛の象徴)へと変えられているわけです。
ラケルの上には、大きな手がかかれています。神の手です。その神の手の中で、母とこどもが安らいでるのが見えるでしょうか。

その約束を見上げ、まさにそれを受け取るかのように広げられたラケルの大きな手が象徴的です。

2010年9月13日月曜日

ジーガー・ケーダー神父 6 ローゼンベルク教会祭壇画 (5)

祭壇画の真ん中の絵です。イエスが十字架から降ろされ、マリアに抱きかかえられている場面です。母マリアの苦しみ、悲しみが描かれています。これは、一つの大きなテーマですので覚えておいてください。


背景には、ゴルゴダの丘、そこに三本の十字架が立てられています。
まず、左の絵には、前からマグダラのマリア、他のマリア、そしてアリマタヤのヨセフ、ヨハネ、ニコデモです。


下の絵の十字架の下、ゴルゴダの丘(ゴルゴダとはされこうべの意)の裂け目から二つの骸骨がのぞいているのが分かるでしょうか。この二つの骸骨はアダムとイブです。アダムとイブは絵画の中では死の象徴として描かれます。そのアダムとイブがキリストの十字架を見上げるように描かれており、キリストの復活を待ちわびているようです。
そして十字架、つまり死の象徴から、いのちを象徴する一本のバラが咲いています。ここに復活の予感させるもの下がかれ、アダムとイブはその希望を見上げているのです。

2010年9月12日日曜日

ジーガー・ケーダー神父 6 ローゼンベルク教会祭壇画(5)

さて、ケーダー師の祭壇画の続きです。
祭壇画の左右の絵を折りたたむと、別の祭壇画が目の前に広がってきます。

ご覧の通り、イエスの受難物語が描かれています。ここでも、イエスの顔はむしろ隠され、イエスを取り巻く人々によって、イエスの十字架の意味が描かれています。

最初に、向かって左の絵です。


十字架上のイエスが描かれています。しかし、この絵の中で最も大きく描かれているのは、前面の縞模様の服(囚人服のような)を着た人間です。この人に有刺鉄線が絡まり、皮膚からは血が流れ、血を流すイエスの姿と重なっています。
この人はドイツの強制収容所に入れられたユダヤ人です。有刺鉄線は強制収容所の象徴でしょう。実はこの近くにも強制収容所はあり、そこら別のところに移されるときに「死の行進」がなされ、もう動けなくなってしまった人がこの地方の森で銃殺され、埋められたという悲惨な出来事があったそうです。この絵は実はその事実を思い出させるものです。そして、このうずくまっている人の上にはとげがある植物があり、そこに白いバラが一つ描かれています。「白バラ」です。「白バラ」は第2次世界大戦かにおけるドイツの非暴力主義の反ナチス運動を指します。日本でも『白バラの祈り』という映画が公開されたのを見られた方もあると思います。その白バラの散った花びらが、この人の血、そしてイエスの血のしたたりによって赤く染まっています。この白バラが、イエスの誕生の場面のクリストローズの白い花と重なっているようです。

イエスの向かって左にいるのはギリシャの哲学者プラトンです。彼はイエスよりも400年も前の人物ですが。義人が十字架にかけられて殺されると、彼の本に書いたことにより、イエスを証しする人として見られています。

イエスの向かって右にいる二人は、アダムとイブです。イエスに彼らの救いを見いだすように、十字架のイエスを見あげています。

先にも書きましたが、この絵には違う時代の人が描かれています。そこに、イエスの苦しみは一体どういう意味があるのかという、ケーダー師の十字架の解釈があります。その絵の前に立つ現代のわたしたちも、その内の一人だと言えます。