今回のチェンマイYMCA訪問の一つの目的として、過去のワークキャンプで神戸とチェンマイの青年たちが協力して造ったいくつかの施設を訪問し、その成果、現在の様子を視察するということがありました。
まず、最初に向かったのが、チェンマイからおよそ250kmほど離れたファイサイ村にある学校です。2013年3月、神戸から6名若者がこの村の人々のところでホームステイし、この学校の情報技術学生センター(コンピューター・センター)の建設を手伝いました。
学校に近づくと、校門周辺にこどもたちが列になってわたしたちを待っていてくれました。わたしたちがバスから降りると、鼓笛グループが音楽を演奏し始め、天女のような格好をした2人の女子学生が歓迎の踊りを踊ってくれました。
コンピューター・センターの前に設置された式典会場に案内され、お茶やお菓子が出されました。そこには、先生方はもちろんのこと、村の人々、特にホームステイをした家の人たちが集まってくれていました。
歓迎の踊りから始まり、学生たちの手作りのプレゼント、校長先生のスピーチ、学生のスピーチ、神戸YMCAからの贈り物とスピーチが行われました。
このコンピューター・センターには8台ほどのコンピューターが設置されており、学生たちが歴史や文化などの情報をインターネットで調べ、自分のノートに情報を書き写していました。ちょっと、先生の指示でやっている感じもありましたが、それぞれの事情もあることでしょう。
続いて、トンプラウ村の学校へ移動しました。この村の学校では、2010年に神戸、タイ、ベトナム、シアトルの青年たちが障がい児学級のための施設の建設を手伝いました。この様な障がい児教育施設はタイでも珍しく、モデルケールとして注目されているようです。
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後の明かりがついている建物がその施設です。 |
こちらも到着すると、大勢の学生、先生、村の人たちが集まっていました。こちらも同じく歓迎の踊り、演奏でわたしたちの歓迎レセプションが始まりました。
その歓迎の踊りの中で踊られた「剣の舞」が興味深かったです。それはなぜ歓迎の踊りに剣が使われるかということです。古来、自分たちの共同体に外からやって来る人(外国人、異民族、旅人)は、客か、商売人か、敵でしかありません。もちろん敵を歓迎するということはありませんが、いずれの外来者は敵になる可能性があり、自分たちの中で友好な客人である限りは歓迎するが、さもなければこの剣がお前を成敗するというメッセージがこの踊りには込められている。宣教師を受け入れるときにもこの様な踊りがなされたということです。そんな、民俗学の話を聞いたことがあります。もちろんそれを現在も意識的に行っているわけではありませんが、そのようなメッセージが米らえた踊りが現在も行われていることが興味深かったです。
校庭での歓迎の踊りの後、学校の集会室に案内されると、舞台、手作りの飾りといわゆる日本の小さなちゃぶ台のようなものが用意されていました。わたしたちは小さなグループに分かれてそれぞれのテーブルに案内され、先生方がわたしたちを接待してくださいました。
そこから、また歓迎の踊り、そして食事が恭しく運ばれてきて、そして、踊り、歌(学生たちによる歌謡ショー)、スピーチ、プレゼントなど、次から次にとプログラムが用意され、2時間ほどのレセプションが、歓声と笑いと共に、あっという間に終わっていきました。
本当に口には表現できない歓迎で、まるで浦島太郎が竜宮城で受けた歓迎のような一時でした。
次の日、今度はメーハン村のチャイルドケアセンターに向かいました。ここは1998年に青年たちがこの託児施設の建設に携わりました。経済的に豊かではない村ですが、この村のこどもたちの福祉のために役立っている施設です。
どの施設も日本のものと比べてお世辞にも立派なものとはいえないでしょう。また、タイの都市部のものとも比べものにはなりません。しかし、この村の人々にとってはとても重要な施設であり、本当に喜びを表現してくれました。わたしたちも報告書や写真で見ていただけでしたが、完成した建物やその施設が実際に使われ、活かされているのを見るのはなんとも感慨深いものです。
そして、なによりも、名も知らないわたしたちを心から歓迎している、最高のもてなしをしてくれたこどもたちや学校、村の人々の姿には涙がこぼれそうな思いになりました。
ただ、この土地の文化の表現として本当に素直にもてなしてくださったことを感謝する一方で、こんなことをこどもたちにしてもらわなくてもいいのに、踊りや歌よりも話をしてくれる方がいいのに、という複雑な思いがあり、手放しで喜べたわけではありません。
ホストファミリーも言葉も十分に通じす、決して日本人の若者にとって快適な居住・生活空間とはいえないと思いますが、彼らは数年後お世話になったホストファミリーをまた訪れているいるのを聞くと、彼らにとってもここでの出会いと学びがどれほど大きなものであったのかが分かります。言葉と言葉ではなく、こころとこころが出会ったのではないでしょうか。