2010年9月3日金曜日

ジーガー・ケーダー神父 1

ジーガー・ケーダー神父は、現代のドイツのキリスト教画家の一人です。キリスト教書店には彼の絵のはがきや本が多数売られています。ドイツでとても愛されているキリスト教画家の一人ではないでしょうか。日本でも彼の絵で綴られた聖書物語が1冊だけ日本語に訳されましたが、残念ながら今は手に入らないのではないでしょうか。

彼が1975年から1995年まで司祭として勤めたローゼンベルク教会を訪問しました。

シュベービッシュ・ハルから30kmほど離れたところにあるカトリック教会です。この教会は巡礼者が訪れる教会の一つになっており、教会の入り口には、巡礼者を象徴する杖と帽子、リュックサックのオブジェが置かれていました。


教会に入ると、カトリック教会に特徴的な十字架の道行きの絵が壁に飾られていましたが、伝統的な絵と、ケーダー神父が描いた現代的な絵の両方が並べられていました。

なんといっても目も、魂も引きつけられるのが、ケーダー神父が描いた祭壇画です。その絵を少しずつ紹介していきます。


クリックすると拡大されますので、しばらくこの絵に何が描かれているかじっくりと見てください。

神さまを見たことがありますか? 続き

前回、絵画や彫刻に描かれた神についてご紹介しましたブログにコメントいただきましたので、少しその続きを書きたいと思います。

コメントのご指摘の通り、「父なる神」という概念から神は若干年を取った男性の姿で描かれています。女性の姿、母親像として描かれているものはありません。ただ、この三位一体を表現する絵画や彫刻以上に、マリアを描いた絵画や彫刻がたくさんあるということも注目すべきだと思いました。もちろん女性が描かれていれば何でもいいというわけではありませんが、今日それをどのように「解釈」するかということに大きな課題があるように思います。

先日訪れたルーブル美術館でその他にもいくつか神を描いた絵を見つけましたので、ご紹介します。

この神を描くということですが、イエスが一人で描かれることがあっても、神が単独で描かれるということはありません。いつも、神(父)と子と聖霊がセットになって描かれています。問題は、神をどう描くかということではなく、キリスト教の教義の三位一体をどのように絵画で描くかということが問題なわけです。

そこで、一番キーワードとなるのがマルコによる福音書1章10−11節の「(イエスが)水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、”霊”がハトのようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という言葉です。この言葉に基づいて三位一体をどのように絵画で表現するかがテーマです。

ですから、いくつかの絵を見ていただくと分かりますが、神と聖霊とイエス(特に十字架上のイエス)が一直線上に描かれその一体性を感じ取ることが出来ます。それから、聖霊がどの位置に描かれるかによって、三位一体論の理解の微妙でしかし大きな違いを描き分けています。

この三位一体を表す「神・聖霊・イエス」の構図は「恵みの座」と呼ばれ、中世(ロマネスク:10−12世紀、ゴシック:12世紀以降)とバロック(16−18世紀)の教会建築やキリスト教絵画において描かれました。

この「恵みの座」の絵を集めたホームページがあるので、興味のある方はご覧ください。

Henri BELLECHOSE, 1415-1416 聖デニスの祭壇画
Frans FLORIS,1562
1457年頃の祭壇画 作者不明

2010年8月30日月曜日

神さまを見たことがありますか?

キリスト教絵画や彫刻には、イエスやマリア、ヨセフ、天使たちが描かれていますが、神をその中でどのように描くかは一つの問題です。


モーセの十戒の第二戒に「あなたはいかなる像も造ってはならない」とありますので、神を描いたり、像として造形されることは滅多にありません。しかし、よくヨーロッパの絵画や彫刻を見ると神さまが描かれていることがあります。

時には、天から差し出された手、もしくは△の中に描かれた目で神を表現することがあります。創世記16:13の「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神、わたしを見られる神)です。」という言葉から来ているそうです。




そういうシンボルではなく、実際に神が描かれている絵と像を見つけましたので、ご紹介します。聖霊は「ハト」として描かれています。

まず、ゲッセマネの祈りの場面、弟子たちがねている中でイエスが祈っている方向に神が描かれています。

もう一つは、神、イエス、聖霊の三位一体を表現した像です。神・聖霊(ハト)・イエスが一直線上に並べられています。
どちらも、ドイツのロマンティック街道で有名なローテンブルクの聖ヤコブ教会で見つけたものです。

2010年8月29日日曜日

シュベービッシュ・ハル 秋の空

わたしたちが17年前ドイツに始めてきたときに生活したのが、シュベービッシュ・ハルでした。語学研修のために半年間、この街に住みました。

そこには、キリスト教社会福祉事業団(Diakoniewerk, Diak)があり、ディアコニッセと呼ばれるプロテスタントのシスターが管理する寮でわたしたちのドイツでの生活が始まりました。

共同のトイレ、風呂、台所、3つの独立した部屋、となりの部屋との間の薄い壁での生活は、2人の小さなこどもを持つ家族には厳しいものがあり、その不便さにくたびれ果てたこともありました。しかし、そこで本当にたくさんの外国人家族と知り合い、不便さを共有に、共に生活することを深められたことは何よりもの宝です。

そのわたしたちの厳しくも楽しい生活を送ったドイツの故郷のようなシュベービッシュ・ハルに、再び家族とともに帰ってきました。
懐かしいディアコニッセたちとの出会い、昔歩いた道をその時の想い出を語りながら、家族と共に歩くのはとても感慨深いものです。
ドイツ語を習うために通ったゲーテ・インスティテュート
授業で一言もしゃべれず、涙して帰ったことも、、、、、

街の中心には、広場(経済)があり、それをはさんで教会(宗教)と市役所(行政)が立っています。

シュベービッシュ・ハルの空は、もう秋の空でした。

空港チャペル この小さなものの一人にしたのは・・・

25日に家族がドイツに来たので、フランクフルト空港まで迎えに行き、そこから昔わたしたちが住んでいた、ドイツの故郷とも言えるシュベービッシュ・ハルに向かいました。

シュベービッシュ・ハルについては、後ほど書きますが、まずフランクフルト空港について。

ドイツの空港にはチャペルがあるのをご存じでしょうか。あまり、空港の中をうろうろすることはないと思うのですが、ドイツの主要な空港の中には礼拝堂があります。空港の中になぜ礼拝堂があるのだろうと思ってしまいます。礼拝堂だけではなく、そこには専属の牧師もいます。
←左に行くとプロテスタント・カトリック共有のチャペル
右→に行くとカトリックの牧会センター
わたしは、空港に行くたびに、とても複雑な感情になります。空港、特に国際線の空港というと、海外旅行、国際的なビジネスマンというイメージがあると思いますが、実際は様々な感情が入り交じった空間であり、そういう複雑な感情を感じ取るところでもあります。また、わたしたち自身がそういう感情を実際に経験した場所でもあります。ですから、空港に行くたびに、17年前に小さなこどもを二人連れて、見知らぬドイツに旅だったときの感情が、場内アナウンスのチャイムと共によみがえってきたりします。

空港には、いろいろな人たちがいます。

特に目を引くのは、これから海外旅行に向かう楽しく、高ぶった思いの人、楽しい旅の経験と共に帰国する人、また仕事や留学のために意気揚々と旅立っていく人たちです。

しかし、そこには、別れ、不安、悲しみ、失望、逃避を経験した人たちもたくさんいます。

難民の人もいます。

その国から追い出された人もいます。

自分の国から逃れてきて、新しい国に希望を懐いてきている人もいます。

家族と別れなければならない人もいます。

親しい人と別れて、自分の国に帰ってきた人もいます。

誰かと見送って、一人になった人もいます。

海外赴任・移住で、長旅で疲れた小さなこどもを連れて、大きな荷物のカートを押している家族もいます。

待合ロビーで涙を流している人もいました。

飛行機で隣に座った学生は、海外で2年間留学を終え、日本に帰り、全く質の違う2年間を過ごした日本にる恋人ともう一度うまくやっていけるのだろうかという不安を語っていました。

海外での夢が破れて帰国する人もいます。

空港は、そういう意味で、人生の非常に困難な状況が渦巻いているところではないでしょうか。そこで、チャペルで静かに祈ったり、また、そこにいる牧師と話をしたり、また社会的な助け・援助が必要な場合もあります。

そういう人生の危機の場面に、ドイツの教会は宣教の課題を見いだしているのです。このチャペルはすべての宗教者に開かれており、24時間いつでも利用することが出来ます。毎日お昼の12時に短い祈りの時を持っているそうです。

空港牧会のホームページをのぞいてみてください。

旅というのは、聖書の中でも、一つの重要なモティーフです。神さまが旅人を伴ってくれるというメッセージが至る所に書かれています。イエスは旅人して聖書に描かれています。「わたしが、・・・旅をしたときに宿を貸してくれたからだ」(マタイ25:35−36)。

ドイツには、高速道路(アウトバーン)のサービスエリアにも、アウトバーン教会(Autobahnkirche)があります。主要な駅には、バーンホーフス・ミッション(Bahnhofsmission、駅宣教団)があり、旅人のお世話をしています。長旅の船にも、牧師が同伴します。
また、空港には、イスラム教徒のための祈りの部屋も用意されています。

日本の宗教者はこういうことをどう考えているんでしょうか。