ようやく晴れました。3週間ぐらい雨か曇り。気温も10度前後で、肌寒い毎日を過ごしていました。会う人会う人が、口々に、夏は一体いつ来るのかと嘆いていました。こんなに天気が悪いと本当にこころも体も落ち込んでしまいます。
今日、土曜日の朝、やっと晴れ〜!
土曜日は、ドイツ人にとっては大切な買い物日です。最近はだいぶん店の閉店時間が遅くなりましたが、なんといっても土曜日の夕方から、日曜にかけては店は一切閉まっていますし、土・日は、家族が集まる日なのでしっかり買い物をしておかなければなりません。
そして、なんといっても、明日の日曜日はペンテコステ、そして月曜日もペンテコステ月曜日といってお休みですから、3日間分ぐらいの買い物をしておかなければなりません。また、学校は今日から来週の日曜日までペンテコステ休暇ですから、家族そろって休暇に出かける人も少なくありません。大学はこの休暇とは関係ありませんが。学校に行っているこどもがいる家族は、どこかで休暇を過ごすことを考えます。
土曜日は、なんといってもマルクト(市場)の日です。ここのマルクトは、週に2回(水・土)の朝の7時頃から、町の広場(マルクト・プラッツ)で開かれています。
野菜、果物を中心に、肉、チーズ、卵、花、パンが売られています。活気のある雰囲気で、新鮮で、様々な種類の野菜や果物を見ているだけでも楽しいです。また、マルクトに売りに来ている店の人との会話も楽しみです。
いまの果物の主流はイチゴでしょうか。500gが500円ぐらいです。町のスーパーと比べるとすこし高めですが、やはり新鮮な感じです。
ドイツ人はリンゴが好きなので、いろいろな種類のリンゴが売られています。日本のリンゴと比べると必ずしも質がいいとは言えませんが、小ぶりで、気軽に食べられる日用食品です。1Kgが300円ぐらいです。先日行った役所の人もかじりかけのリンゴと水を机の上に置いて、仕事をしていました。
ホワイトアスパラも一時の勢いはなくなりましたが、まだまだ食べ頃です。ドイツ風の食べ方もいいのですが、これををゆがいてわさび醤油で食べると、何となく刺身のような感じがして、、、、。
チーズ屋さんも楽しいです。いろいろな種類のチーズがあり、どれにしようなかな・・・、迷ってしまいます。その横には、ハム・ソーセージなどもあり、これまた豊富な種類です。いろいろと考えたいし、新しいものも味わってみたいのですが、後ろには何人も並んでいて、グズグズしていると怒られるのでは(と勝手に)思ってしまい、緊張し、結局名前を知っているいつものものしか買えないことがあります。
本当は、堂々と店の人に質問して、長い時間かかっても、それはそれでわたしのたちの権利として、何の問題もないのです。違う種類のチーズを1枚ずつ注文して、1枚ずつ包んでもらうこともできるのですが、、、。
店の人も店の人で、お客と対等です。
今朝は、こんな一場面も、
客:「ハロー!(ちょっと)、さっきから30分は待っているんだけれど」
店:「今日はね、人が多いから、待ってもらわないと。30分待っているなんてありえないでしょ」
この会話はこの会話で終わりです。客は怒って違う店に行くわけではなく、そのまま買い物をし、店の人もそのまま応対しています。
横で聞いているわたしたちがはらはらして、わたしたちが代わりに「お待たせしてすみません」と謝りたくなってしまいます。なんて、日本人は気が弱いのでしょうか。
パンやケーキを売っているおじいさん・おばあさんのお店があります。どこかの農家の人でしょうか。
先週もここでケーキを買いました。気取った感じではありませんが、とてもおいしかったです。今の時期はイチゴのシーズンなので、イチゴケーキがおいしそうです。ぜひ買って帰りたかったのですが、今日は夕方、わたしの恩師の誕生日会に呼ばれていて、食べる・しゃべるの数時間を過ごすので、ケーキは控えておきました。
パンも素朴で、お手製のジャムも市販のジャムの空き瓶に入れて売っています。
わたしたちのお気に入りの店の一つに、鶏肉屋さんがあります。スーパーで売っている冷凍肉は本当に安く、骨付きもも肉が1つ150円ぐらいですが、ここのはすこし高めです。それでも鶏まるまる1羽が600円ぐらいで、とてもおいしいです。
明日の午後はお客さんが来るので、楽しみです。なんといっても、人と話をするということが一番のご馳走ではないでしょうか。
日本もそうですが、スーパーでは一言も話さなくても買い物ができますが、マルクトでは会話つきの品物を買うことができます。その思い出と共に食べる食事は格別です。
2010年にドイツ留学を機に始めた「ドイツ滞在日記」の続きとして、日本の日常生活の中で出会ったり、発見したり、経験した躍躍(やくやく:こおどりしたくなる)ような出来事をお伝えします。
2010年5月22日土曜日
2010年5月18日火曜日
Kindertaufe Taufe(タウフェ・洗礼)といえば幼児洗礼
先日の日曜日に、礼拝の中で幼児洗礼式が行われました。
ドイツでは、洗礼といえば幼児洗礼で、成人洗礼はほとんどと言っていいほどありません。幼児の時に洗礼を受け、14才になると1年間の堅信礼準備クラスを終えた後、堅信礼(信仰告白式)を受けるのが一般的です。この堅信礼準備クラスにも、幼児洗礼を受けていない生徒も来ているのですが、彼らも堅信礼の数週間前に(幼児)洗礼を受けてから、堅信礼にのぞみます。
洗礼式は、これはまさに家族的な行事です。昨日の洗礼式には、2人の1歳児のこどもが洗礼を受けに来ていたので、それぞれの家族が礼拝堂の前3列ほどに座っていました。結婚式の親族を想像してただければいいと思います。Täufling(トイフリング)はまるで花婿や花嫁のように着飾っています(こういう服が売られているわけです。まるで日本の初参りや七五三のような感じです)。祖父母、叔父、叔母、いとこ、親しい友人などもスーツやドレスを着て出席しています。おそらく礼拝の後、親族そろってどこかで食事をするのでしょう。
さて、洗礼式のなかで、なかなかいいなあと思うことがいくつかあります。
まずなんといっても、「ハレ」やかな雰囲気です。洗礼盤が花できれいに飾られることもあります(写真は別の教会のものです)。厳粛さということも大切だと思いますが、「洗礼の喜び、受け入れる・歓迎する、新しいいのち」ということをどのように表現し、またそれを感じ取るかということも大切だと思います。花は、いのちの象徴でもあり、喜び、祝うということを表すものとしてとてもいいのではないでしょうか。
その洗礼盤の中に、兄弟の一人が水を注ぎます。こういう協同性、「共に」ということも大切にします。5年ほど前に、日本からドイツに行ったときに、知り合いの牧師から日本の水を持ってきて欲しいと頼まれました。洗礼式に様々な地方から親戚が集まってきて、それぞれの土地の水を持ってきて、洗礼に対する思いを述べながら洗礼盤に水を注ぎたいというのです。わたしも日本から来てその礼拝に参加しているものとして、その輪に加えてもらい、水を注ぎながら、一言お祝いの言葉を語ったことがあります。(ただ、飛行機に液体を持ち込むのは禁止されていたので、「伊右衛門」のペットボトル容器だけ持っていき、ドイツで水を入れさせてもらいました。あくまでも象徴ですから)。
こういう協同性ということに関して、もう一つ。この洗礼の証人が、受洗するこどもに対して祝福の言葉を語ります。
今回は、先ほどのお兄ちゃんが祝福の言葉を読んでいました。
洗礼が終わると、牧師から受洗記念ロウソクがわたされます。これは家族が事前に用意しておきます。自分たちで大きなロウソクを買ってそれに飾り付けることもできますし、また既製品も売っています。この教会では木の十字架も渡されていました。
このロウソクは、受洗記念日にそれぞれの家庭で灯されるそうです。
日本の教会でも、何年目かの受洗を記念するということを考えてはどうでしょうか。
今日洗礼を受けたこども、またその家族が再び教会に来るのは、13ー4年後の堅信礼の時かな?
ドイツでは、洗礼といえば幼児洗礼で、成人洗礼はほとんどと言っていいほどありません。幼児の時に洗礼を受け、14才になると1年間の堅信礼準備クラスを終えた後、堅信礼(信仰告白式)を受けるのが一般的です。この堅信礼準備クラスにも、幼児洗礼を受けていない生徒も来ているのですが、彼らも堅信礼の数週間前に(幼児)洗礼を受けてから、堅信礼にのぞみます。
洗礼式は、これはまさに家族的な行事です。昨日の洗礼式には、2人の1歳児のこどもが洗礼を受けに来ていたので、それぞれの家族が礼拝堂の前3列ほどに座っていました。結婚式の親族を想像してただければいいと思います。Täufling(トイフリング)はまるで花婿や花嫁のように着飾っています(こういう服が売られているわけです。まるで日本の初参りや七五三のような感じです)。祖父母、叔父、叔母、いとこ、親しい友人などもスーツやドレスを着て出席しています。おそらく礼拝の後、親族そろってどこかで食事をするのでしょう。
さて、洗礼式のなかで、なかなかいいなあと思うことがいくつかあります。
まずなんといっても、「ハレ」やかな雰囲気です。洗礼盤が花できれいに飾られることもあります(写真は別の教会のものです)。厳粛さということも大切だと思いますが、「洗礼の喜び、受け入れる・歓迎する、新しいいのち」ということをどのように表現し、またそれを感じ取るかということも大切だと思います。花は、いのちの象徴でもあり、喜び、祝うということを表すものとしてとてもいいのではないでしょうか。
その洗礼盤の中に、兄弟の一人が水を注ぎます。こういう協同性、「共に」ということも大切にします。5年ほど前に、日本からドイツに行ったときに、知り合いの牧師から日本の水を持ってきて欲しいと頼まれました。洗礼式に様々な地方から親戚が集まってきて、それぞれの土地の水を持ってきて、洗礼に対する思いを述べながら洗礼盤に水を注ぎたいというのです。わたしも日本から来てその礼拝に参加しているものとして、その輪に加えてもらい、水を注ぎながら、一言お祝いの言葉を語ったことがあります。(ただ、飛行機に液体を持ち込むのは禁止されていたので、「伊右衛門」のペットボトル容器だけ持っていき、ドイツで水を入れさせてもらいました。あくまでも象徴ですから)。
こういう協同性ということに関して、もう一つ。この洗礼の証人が、受洗するこどもに対して祝福の言葉を語ります。
今回は、先ほどのお兄ちゃんが祝福の言葉を読んでいました。
洗礼が終わると、牧師から受洗記念ロウソクがわたされます。これは家族が事前に用意しておきます。自分たちで大きなロウソクを買ってそれに飾り付けることもできますし、また既製品も売っています。この教会では木の十字架も渡されていました。
このロウソクは、受洗記念日にそれぞれの家庭で灯されるそうです。
日本の教会でも、何年目かの受洗を記念するということを考えてはどうでしょうか。
今日洗礼を受けたこども、またその家族が再び教会に来るのは、13ー4年後の堅信礼の時かな?
2010年5月17日月曜日
オルガンの奏楽を楽しむ
ドイツの礼拝に出る楽しみの一つは、パイプオルガンの奏楽を聞くことです。
礼拝の最初の前奏、そして最後の後奏はもちろんですが、会衆が賛美歌を歌う前に弾く前奏、そしてその伴奏、それからその賛美歌の後奏をオルガニストがどのように用意しているのかということも楽しみです。
最初ドイツの礼拝に出たときに、賛美歌を歌うというときに、オルガニストがなにやら弾き始めたのですが、いったいこの人は何を弾いているのだろうかと思っていると、その演奏が一瞬途切れると、会衆が賛美歌を歌い始めたのにびっくりしました。
これから歌う賛美歌のメロディーを一回弾きますから、会衆のみなさんご準備くださいというのではなく、オルガニストが、その曲の旋律を織り込んで編曲した(わたしにとっては全く別の曲かと思えた)前奏を弾くわけです。
その前奏に段々慣れてくると、賛美歌の前奏であるということ気がついてきます。それぞれのオルガニストの腕の見せ所です。前奏だけではなく、伴奏も、また歌い終わったあとの後奏もアレンジしています。オルガンはオルガンで、会衆は会衆で、それぞれの役割を担いながら、一つの賛美歌ができあがっているという感じです。
礼拝の賛美歌にそんな「装飾」はいらない、大切なのは神さまを賛美するこころですといわれる方もあると思います。もちろん、そういう考えもありますし、神学的に何が正しいということはありません。そんなオルガニストでないと賛美ができない、ドイツの方が本物だということでは全くありません。
オルガニストによっては、ちょっとあなた出しゃばり過ぎじゃないのというような前奏を用意してくる方もいて、ちょっと辟易することもあります。
むしろ賛美において「一歩退く」ということを感じるのです。一度この奏楽に親しむと、自分が歌うという意識が退き、オルガンも、会堂も、いろいろな礼拝堂の中のシンボルも、光も、陰も、そして会衆も一緒になって神を賛美する一つの「響き」を創り出しているのだという気持ちになってきます。
百聞は一見にしかず。ある賛美歌の前奏と1番だけを聞いていただいて、どのような感じなのか味わってみてください。残念ながら、前奏の最初の方は雑音が入ったので、カットしています。また、この賛美歌は礼拝の一番最初に歌ったものですから、礼拝全体の前奏も兼ねたものであり、若干普通の賛美歌の前奏よりも長めです。
まあ、この大きな礼拝堂にしては少ない会衆で、決して賛美の声が十分であるとは言えないのが、残念な点ですが。ドイツ全体で賛美歌を歌える人が少なくなってきて、葬儀でも賛美歌を歌う代わりに、オルガン、フルート、バイオリンによる演奏が行われるというのが現状です。
礼拝の最初の前奏、そして最後の後奏はもちろんですが、会衆が賛美歌を歌う前に弾く前奏、そしてその伴奏、それからその賛美歌の後奏をオルガニストがどのように用意しているのかということも楽しみです。
最初ドイツの礼拝に出たときに、賛美歌を歌うというときに、オルガニストがなにやら弾き始めたのですが、いったいこの人は何を弾いているのだろうかと思っていると、その演奏が一瞬途切れると、会衆が賛美歌を歌い始めたのにびっくりしました。
これから歌う賛美歌のメロディーを一回弾きますから、会衆のみなさんご準備くださいというのではなく、オルガニストが、その曲の旋律を織り込んで編曲した(わたしにとっては全く別の曲かと思えた)前奏を弾くわけです。
その前奏に段々慣れてくると、賛美歌の前奏であるということ気がついてきます。それぞれのオルガニストの腕の見せ所です。前奏だけではなく、伴奏も、また歌い終わったあとの後奏もアレンジしています。オルガンはオルガンで、会衆は会衆で、それぞれの役割を担いながら、一つの賛美歌ができあがっているという感じです。
礼拝の賛美歌にそんな「装飾」はいらない、大切なのは神さまを賛美するこころですといわれる方もあると思います。もちろん、そういう考えもありますし、神学的に何が正しいということはありません。そんなオルガニストでないと賛美ができない、ドイツの方が本物だということでは全くありません。
オルガニストによっては、ちょっとあなた出しゃばり過ぎじゃないのというような前奏を用意してくる方もいて、ちょっと辟易することもあります。
むしろ賛美において「一歩退く」ということを感じるのです。一度この奏楽に親しむと、自分が歌うという意識が退き、オルガンも、会堂も、いろいろな礼拝堂の中のシンボルも、光も、陰も、そして会衆も一緒になって神を賛美する一つの「響き」を創り出しているのだという気持ちになってきます。
百聞は一見にしかず。ある賛美歌の前奏と1番だけを聞いていただいて、どのような感じなのか味わってみてください。残念ながら、前奏の最初の方は雑音が入ったので、カットしています。また、この賛美歌は礼拝の一番最初に歌ったものですから、礼拝全体の前奏も兼ねたものであり、若干普通の賛美歌の前奏よりも長めです。
まあ、この大きな礼拝堂にしては少ない会衆で、決して賛美の声が十分であるとは言えないのが、残念な点ですが。ドイツ全体で賛美歌を歌える人が少なくなってきて、葬儀でも賛美歌を歌う代わりに、オルガン、フルート、バイオリンによる演奏が行われるというのが現状です。
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