2010年5月1日土曜日

ステンドグラス in ハイデルベルク −1−

ドイツに来てもう1ヶ月が経ってしまいました。なんだかあっという間に時間が過ぎてしまい、このまま1年が終わってしまうのだろうかという不安さえ感じます。
ドイツに来て楽しみの一つは、教会の中に身を置くということです。歴史のある教会堂、パイプオルガンや他の楽器の響き、賛美歌・コーラスのハーモニー、リタージカルな礼拝の雰囲気、ステンドグラスを通して差し込んでくる光またその光が届いていない暗がりの中に身を置くことで、充実感と癒しを感じます。これらは説教を理解するという理性的で知的なこととは違って、感覚的で体感的なことです。しかし、これがどれほど多くのことをわたしたちに語りかけてくれるでしょうか。
昨日のバッハ・ゼミでも、神の福音をバスが歌うことでそのメッセージが根底的なことであることを訴え、ソプラノとアルトが同じ言葉を繰り返し繰り返し螺旋的に歌うことによって、不安と瞑想を物語っていることを学びました。感覚的で体感的なことが礼拝の中で非常に大切な役割を持っています。

その中の一つのステンドグラスがあります。ステンドグラスは、それを見る人に聖書のメッセージを伝えると共に、色と光の作用によって、教会の中に静けさとまた思索する刺激を与えてくれます。夜は暗闇の中歩む人たちに教会の中からステンドグラスを通して発せられる光と色が安らぎと安心感を与えてくれます。
そのステンドグラスも時代と共に変化しています。特にこのブログではハイデルベクルの現代のステンドグラスについていくつか紹介したいと思っています。

一般の人が教会と聞いて思い浮かべるものの一つがステンドグラスではないでしょうか。そして、多くの人がそのステンドグラスにある一定のイメージを描いていると思います。そこには聖書の中の一場面、聖書の中に出てくる人物特にイエスやマリヤが描かれているというイメージを持ちます。おそらくこんな感じ(右上、右横)ではないでしょうか。

現代に新しくステンドグラスが作られるとき、もはやこのようなステンドグラスのイメージで作られることはまれになってきました。
これらのステンドグラスは、その時代の神学やメッセージに従ってつくられたものです。現代は現代において何を伝え、何を後世に残していくのかということが問われなければなりません。ただ単に何となく教会ぽいということだけではお金をかけても内容的に安っぽいものになってしまいます。

さて、前回ご紹介した聖霊教会は、非常に長い伝統のある教会ですが、そのステンドグラスは非常に現代的なものです。それが、前回のドイツの荘厳な礼拝堂とアフリカのコーラスが独特なハーモニーを醸し出しているように、古いゴシック様式の外見と新しいステンドグラスが結びつき、わたしは最初見たときには感激さえ覚え、その前に立ち尽くしました。また、こういうことがどうして日本でできないのだろうと、悔しささえ覚えました。


この教会に入って最初に右手に見るのが、このステンドグラスです。
さて、このステンドグラスに何を見いだすでしょうか

まず、下から見ていきますと、
・6. 8 .1945 (1945年8月6日)という日付
・赤く壊れていくような球体
・その右上には E=mc2という数式

もちろんお分かりかと思いますが、
・広島の原爆の日付
・その原爆の力とその悲惨さによって壊れていく地球、もしくは原爆によるキノコ雲のようです
・そしてその原爆を生み出すきっかけとなったアインシュタインの公式

つまり、このステンドグラスのモティーフは羊を肩に担いだ牧歌的なイエスの姿でもなく、またファンタジックな天使たちの姿でもありません。

世界の現実の姿がここに描かれていますし、単に歴史的な出来事を物語っているのではなく、未来に対する警告を発しています。
しかし、それは単に社会的な問題に描いているのではなく、その上には二つの聖書の箇所が書かれています。
上部に書かれているのが、
「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペテロ3:10)という新約聖書の言葉。
そして、その下に書かれているのが、
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ54:10)という旧約聖書の言葉です。
さて、この言葉は何を意味しているのでしょうか。
ペテロの言葉は、終わりの日における神の裁きの言葉です。そして、「天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」という言葉は、まさに広島の原爆の熱線と暴風の恐ろしい力を思わせる言葉です。そしてそれは現代のわたしたちに対する預言者的な警告の言葉です。
この言葉とは対照的に、イザヤ書の言葉は、神の憐れみの言葉です。どんなことがあっても、神の慈しみはわたしたちから離れないということです。

現代のわたしたちはこの二つの言葉を聞かなければならいというメッセージです。そして、お気づきになったでしょうか。この言葉が、中途半端に右にずれています。これはこの言葉が外から()入ってきていることを示しています。つまり、この言葉は人間自ら語る言葉ではなく、「救いは外から来る」という宗教改革の精神を示しています。この言葉が人間の外から、つまり神によって語られたものであり、人間の中に入ってきているということを表しています。

まだまだ、このステンドグラスには様々なシンボル(秘密)が隠れています。それを見つけてみてください。形、色、場所様々に意味を持っています。

たとえば、聖書の言葉の最後に、3個の同じシンボルが描かれています。それはいったい何だと思いますか。考えてみてください。

2010年4月27日火曜日

桜の木の下で

先週の金曜日、ハイデルベルクに住む以前日本で宣教師として働き、現在はDOAM(Deutsche Ostasien Mission)の会長をされているシュナイス牧師としばし、コーヒーとケーキをいただきながら、お話しをさせていただきました。
ハイデルベルクのメインストリートに面するカフェの中に入ってみると奥には庭があり、オープン・カフェになっています。優しい太陽の光と桜の木の下で、2時間ほどいろいろな話をいたしました。

シュナイス牧師は特に日本のキリスト者が平和についてどんな発言をし、どのような影響を与えたかドイツの人たちに伝えたいと思っておられます。しかし、その情報がとても少なく、ドイツではなかなか手に入らないのでぜひ協力してほしいということでした。

彼が嘆いたこととの一つに、日本の教会とドイツの教会が協力しあって、もっとお互いの問題を話し合い、またそこに共通の宣教の課題を見いだしたいと思っているけれども、日本の教会はわたしたちに何の発信もしてくれないし、リクエストも少ない。日本の教会はこうした国際的でエキュメニカルな教会同士の関係をどう考えているのだろうかということでした。確かに、日本の教会は内向きになり、自分たちの内部の問題で紛糾し、外に積極的に働きかけようとしていないように思えます。もちろん、言葉の問題もあり、人材の問題もあり、誰が情報の発信を担い、またカウンターパートナーとなって教会間の関係を担っていくのかということが問われてきます。

いまはお金の問題で、教会の国際的な交流も少なくなってきています。ドイツの宣教局も段々と縮小され、ポストもお金も削減されていっています。ますます人的な交流が少なくなって、2,3泊の教会協議会か、インターネット時代を象徴する情報の交換だけが主たるものになってしまいます。

こんなドイツを象徴する教会の横で、そして日本を象徴する桜の木の下で、ゆっくりとお互いの問題を話し合えるような関係が、続いていくことを願っています。そのために、シュナイス牧師にしろ、わたし自身にしろ、何年かそれぞれの国に住み、その教会で働かなければできないこともたくさんあるように思います。

ぜひ、このブログを読んでおられる方も、何らかの形でドイツに興味を持ってくださり、次の時代の架け橋となってほしいと願っています。