2010年10月2日土曜日

ユダヤ人を救ったドイツ人 映画「農家の人たちのもとで」

以前もお伝えしましたが、月に2枚ずつ、DVDを借りて、ドイツの映画を見ています。なかなかドイツの映画は日本では公開されないので、非常に興味深く一つ一つの作品を見ています。

昨晩は、"Unter Bauern   Retter in der Nacht"という作品を見ました。直訳すると「農家の人たちのもとで  真夜中の救助者」ということになるでしょうか。「真夜中」はおそらくナチス時代のことを表現しているのではないでしょうか。

俳優とこの物語の経験者本人(前、白い服)
概略は、あるユダヤ人家族(父、母、娘)が、戦時中の2年間、ドイツのある農家とその農家の知り合いの4家族にかくまわれて、戦争の時を乗り越えるという物語です。実際にあった話に基づいて作られた映画で、その映画の最後には、当時7000万人のドイツ人の中で戦争中ユダヤ人をかくまって守った「ユダヤ人救助者」が455人存在したことがテロップで伝えられました。




この映画の中で描かれていた農家の人たちは、何か政治思想や、深い信念があって、ユダヤ人家族を助けたわけではなく、ただ「強制収容所に送られれば大変なことになる」と思い、「人間」として助けたということです。人としての共感が勇気ある行動を生み出し、いのちを救いました。それとは対照的にナチス、また戦争の「非人間」性が多くの人をいとも簡単に不幸にしていったことが描かれています。

2010年10月1日金曜日

ハイデルベルクのStolperstein(躓きの石)

 以前、ベルリンのStolperstein(シュトルパー・シュタイン、躓きの石)についてお伝えしましたが、わたしたちが住んでいるハイデルベルクでも、歩道にStolpersteinを埋める計画が進んでいます。

昨日夜7時30分からこのプロジェクトに関係する話し合いがあったので、参加してきました。

1940年10月22日、今から70年前に、ハイデルベルクから約300名のユダヤ人が南フランスのスペインとの国境に近いグール(Gurs)強制収容所に移送されました。
かつてハイデルベルクにあったユダヤ教会堂(シナゴーグ)跡
「1939年10月10日、邪悪な行為によって破壊された」
今年の10月22日に、ハイデルベルクの6高校の学生およそ300名が、その人たちの名前と誕生日などを書いた名札とつけて、各高校からその人が列車に乗せられた(旧)ハイデルベルク駅まで行進するというプログラムが進んでいます。

昨晩はある高校の教室に、各学校の先生や生徒会長などが集まり、このプログラムの主催者との打ち合わせが行われました。

この行進の様子は、また後日お伝えします。

ハイデルベルクの最初のStolpersteinは10月12日に埋められることになっています。それもまたご報告します。

2010年9月30日木曜日

ベルリン カイザー・ヴィルヘルム記念教会

まだ東西統一して間もないころ、旧西ドイツからベルリンに行くと、旧西ベルリンの中心地にある「動物園駅」で下車していました。統一して16年目、2006年にベルリン中央駅が開設され、そちらがベルリンの主要ターミナル駅となりました。
ベルリン中央駅
「動物園駅(この動物園はシロクマのクヌートで有名になりました)」を降りるとすぐに、二つ対照的な教会が並んで立っています。一つは伝統的なロマネスク建築の教会ともう一つは近代的なモダニズム建築の教会です。この教会が「カイザー・ヴィルヘルム記念教会」です。
右側が新しい塔
手前にあるのが、新しい礼拝堂
礼拝堂内部


古い建物は、1895年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼してたてられた教会です。ベルリンの大空襲の時に破壊されましたが、最低限の補修だけをして、戦争の悲惨さを伝える記念碑として残されています。その残骸のような建物の中にも入ることがで来ますが、主たる活動はその横に立てられた新しい教会堂で行われています。


ベルリンで過ごした5日間は、戦争、記念、加害者、被害者・被災者について考える充実したときでした。忘れないということは、わたしたちの未来を創っていきますが、いったいわたしたちがどんな未来を創っていきたいのか、そのために何を忘れないのか、何を記念するのかが問われた5日間でもありました。

ケーテ・コルヴィッツの戦死した息子を抱く母
マリアの「ピエタ」を連想させる作品です。
ベルリンは、すっかり秋になっていました。ドイツの「黄金の秋」と呼ばれる美しい季節の始まりです。

2010年9月29日水曜日

ベルリン ナチスの犠牲者たちを覚えて 2

昨日紹介したように、ナチス時代にはユダヤ人だけではなく、精神障害者やナチスに反対する政治家・宗教者、同性愛者、シンティ・ロマが強制収容所に送られ、そこで処刑されました。
その人たちのことを覚えて、ベルリンの各所にその記念碑が建てられています。

これは、ドイツの国会議事堂ですが、その前の広場の片隅に、ナチスによって処刑された政治家の記念碑があります。


ロッテ・チンケ
1891−1944
ラーフェンスブルク強制収容所
そこから少し歩いたところ、「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者記念館」の前の公園の一角に、同性愛者の犠牲者のための記念建築物があります。

建物の小さな窓から中をのぞくと、ちょうどこの建物の場所で
口づけしあっている二人の青年の映像が繰り返して映写されています。
この記念建造物の横にその説明がありましたので、概略を訳して紹介します。
ナチスは法律で男性の同性愛者を犯罪者として定め、何千にもの人が強制収容所に送られました。その内の多くは餓死、病死、虐待死、処刑によってその命を失いました。
当時は女性の同性愛者はナチスにとってはそれほど問題視されてはいませんでしたが、抑圧された生活を余儀なくされ、自分自身をカモフラージュして生きていかなければなりませんでした。
長らくこの同性愛者の犠牲者はナチスの犠牲者の記念から除外されており、西ドイツにおいても1969年までは同性愛者は犯罪者であるという法律が効力を持っていました。
ドイツはこの歴史を顧み、同性愛者の人権が傷つけられている現実に立ち向かうことを決議いたしました。
この記念建造物を持って、ドイツ連邦共和国は、同性愛ゆえに迫害され殺された犠牲者を悼み、我々の不正義の歴史を覚え、同性愛者に対する不寛容、敵対心、排除に反対する印とします。

現在は、この近くに同じくナチスの犠牲者となったシンティ・ロマの人たちのための記念碑が建築中です。

ハイデルベルクにの町の一角、中心街の建物の壁にもシンティ・ロマの人たちのための記念碑がつけられています。
ナチスの大量殺戮の犠牲者となった
ハイデルベルクのシンティ・ロマをおぼえて

2010年9月28日火曜日

ベルリン ナチスの犠牲者たちを覚えて 1

ベルリンの中には、ナチスの犠牲者たちを覚える記念碑や記念建造物があります。今回訪れたいくつかの記念碑などをご紹介します。

ベルリンの中心地、各国大使館、各種文化施設、オフィスビルが建ち並ぶ中に、立方体の石が碁盤の目のように規則正しく無数に並んでいるところがあります。

これは2005年に建てられた、ヨーロッパでナチスの犠牲者となったユダヤ人を覚える「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者記念館」です。ホームページから日本語の案内もダウンロードできます(ページの下のあたり、Flyers to download JP-Japanese)。

この記念館(情報センター)自身は地下にあるのですが、その地上には2,711個の大きさの違うコンクリートの石碑が建てられています。2,711という数字は特に犠牲者との数とは関係なく、土地の面積とデザインから出てきた数字です。

この無機質な石群の中に入るとめまいを感じ、一体自分はどこにいるのだろうかという思いになってきます。

修学旅行生には格好の鬼ごっこの場所になっていましたけど。

ドイツでは、このような強制収容所に入れられ犠牲者となった、精神障害者、シンティ・ロマ、同性愛者、反政府思想家・政治家を覚える記念建造物が建てられつつあります。(つづく)

2010年9月27日月曜日

ベルリンの壁 2

ベルリンの壁、また東西ドイツを分けていた壁の当時の様子(CG)が「ベルリンの壁記念公園」のホームページで見ることができます。興味のある方は見てください(ここをクリック)。
ベルリン・ドイツ歴史博物館
「わたしたちは一つの国民」
今年は、東西ドイツ統一20周年です。
さて、ベルリンの壁を乗り越えて、西側に亡命しようとした人は何人もいました。また、その中で、壁のところで殺されてしまった人もたくさんいます。その人たちを覚えて、かつて壁があったところに、その人たちの名前、殺された日付が記された十字架がかかげられています。
川を越えようとして、おぼれたか、射殺された人たちの十字架

ベルリンの壁 1

ベルリンといえば、ベルリンの壁

いまは、一体どうなっているのだろうとと思います。

ベルリンの中心街に行くと、特別な記念建造物は別ですが、かつての東西に別れていた状況を感じることは出来なくなってきました。

まだ、17年ぐらい前に旧西ドイツから旧東ドイツの地域に入ったときは何か別の世界、外国に来たような感じがしました。

しかし、いまはそういう違いがだんだんとなくなってしまったようです。いわゆる旧西ドイツ化が進み、表面的にはその区別が付かなくなってきました。

もちろんベルリンの壁は取り壊されて、一体どこにあったのか分かりません。そこは道になり、広場になり、またその上には建物が建っています。しかし、気をつけて足下をみるならば、道にはここに壁があったという印(線、他の敷石とは違う敷石の列)が延々と続いています。

ベルリンの壁 1961-1989


もちろん、街の中にも記念として一部残されているところがあります。

その中でも北駅の近くには当時のままの壁が残され、「ベルリンの壁記念公園」になっています。

2010年9月26日日曜日

ベルリンに行ってきました。  DOAM研修会「未来は記念を必要とする」

ベルリンから帰ってきて、前回のブログを見ると「研修会に参加するために、ドイツに行きます。」と書いてあるのに気がつきました。またまた、よくやるミスです。ドイツに行ったのではなく、ドイツの首都ベルリンに行ってきました。

ベルリンについては、いろいろとお伝えしなければならないことがたくさんありますが、何しろ5日間研修所に缶詰になっていたため、観光的なことはお伝え出来ません。この研修会のテーマに関するベルリンをご紹介します。

DOAM(ドイツ東亜宣教会)研修会のテーマは「未来は記念を必要とする」でした。どのような未来のために、わたしたちは何を忘れてはならないのか、どのように記念しなければならないのかということが話し合われました。

日本から大阪大学の木戸衛一准教授が靖国神社問題、
韓国からはアジアキリスト教協議会の神学担当幹事のPark Sung Kook氏がアジア(韓国、中国、日本)の記念施設における傾向(加害者性と被害者性の問題)について話をしました。Park氏は、わたしが以前ドイツで勤めていた宣教チームの3代ぐらい前の前任者の息子さんで、わたしにとっても嬉しい出会いでした。
さらに、ドイツで従軍慰安婦問題に取り組んでいるHan Natalyさんの講演がありました。
わたしの妻は阪神淡路大震災記念と教会の取り組みについて話しました。
わたしは、閉会礼拝の説教担当でした。

ドイツ側からは、ナチスとユダヤ人虐殺問題についての様々な講演がありました。
その中で一つで、現在ドイツの各地に取り組まれている"Stolperstein Projekt"についての講演がありました。Stolperstein(シュトルパーシュタイン)とは「躓きの石」のことです。
講演だけではなく、ベルリンの街に出かけ実物を見てきたので、まず、その写真を見てください。

これはドイツの歩道の敷石の一つを取り出し、このStolperstein(シュトルパーシュタイン)に取り替えるということプロジェクトです。
このStolperstein(シュトルパーシュタイン)には、

ここで学びました
ハインリッヒ・ガーベル
1910年生まれ
1939年にオランダに避難
ヴェスターボルク収容所に収容
1944年9月4日に追放
テレジーエンシュタット
アウシュヴィッツ
1945年2月28日に処刑

と書かれています。
彼はユダヤ人で、ベルリン・フンボルト大学で学んでいた学生です。このStolperstein(シュトルパーシュタイン)が埋められているのはフンボルト大学の前の歩道です。

ベルリン・フンボルト大学
このように、ドイツ各地でナチスによって殺されたユダヤ人の名前とその足跡をその人が住んでいた場所に、もしくはその近くに埋めていこうとする運動です。現在ドイツ中に広まっています。このプロジェクトのホームページには、そこに記念されている人のもっと詳しい報告が書かれています。シュトゥットゥガルトのホームページを見てみてください。ドイツ語ですが、名前をクリックするとその人についての記事が出てきます。

「忘れない」ということは大切なことです。「忘れるな」と告げるだけではなく、忘れないために何をするかということが問われています。この歴史を覚えることはドイツ人にとっては躓きの石ですが、それは忘れないための重要な石になるわけです。