栗ご飯もおいしかったですが、毎日だと飽きてくるので、連れ合いが今度は栗の渋皮煮に挑戦してみました《わたしは研究に精進しているので(^_^;)》。
渋皮煮には一つの想い出があります
10年前、一人でハイデルベルクの学生寮に住んでいたとき、気分転換に栗の渋皮煮を作ってみたいという思いになりました。日本で食べたことへの郷愁と、寮生と一緒に食べて楽しみたくて、挑戦してみました。何とかうまくできあがって、1週間ほど冷蔵庫に保管し、何人かの寮生と一緒に食べることにしました。
みんな嬉しそうに食べている中、イタリア人で哲学を専攻していたジョバニーがちょっと納得がいかないような顔をして、「この栗のお菓子には何か足りないような気がするんだけれど、そうだな、ブランディーかな」と言ったのです。まさに、彼の言うとおりで、実はブランディーを買うのをけちって、ブランディーなしで作りました。
それを、彼が指摘したセンスに感激。繊細な味覚の違いが分かることに意気投合して、それからいろいろとお互いに料理を作りあって、友達を誘って食べるようになりました。彼から、夜中の11時半にペペロンチーノを教えてもらったときに、「これはイタリアでは《真夜中のパスタ》と言って、夜食に食べるんだ」と言っていたのを覚えています。
さて、今回はブランディーも入れて、ばっちり!いわゆる日本で売っている栗ほど大粒じゃありませんが、結構いけています(小粒だけに、作業は大変だったのですが)。
同じ山で、春になるとワラビも取れるそうですが、ああ、その頃はもう日本です。嬉しいような、悲しいような。
山には食べるものだけではなく、こんな飾りになる木の実や葉っぱもあります。妻が、ロウソクを買ってきてロウソクの飾りにし、ハイデルベルクの山を案内し、栗拾いに誘ってくださった方の誕生日プレゼントにしました。
2010年にドイツ留学を機に始めた「ドイツ滞在日記」の続きとして、日本の日常生活の中で出会ったり、発見したり、経験した躍躍(やくやく:こおどりしたくなる)ような出来事をお伝えします。
2010年10月16日土曜日
2010年10月13日水曜日
ゲゲゲ、新聞に出てしもた!!!
昨日のStolperstein(シュトルパー・シュタイン)の記事を読むために、今朝、パン屋で買ってきた新聞を開いてびっくり、「なんやこれ、たまたま芸術家の後ろにいて、写真を撮っていたのが写っているやないか。ゲゲゲ」。
なんかものすごく恥ずかしい。特に主催者でもなければ、このプログラムに最初から積極的に関わっていたわけでもないのに、こんな写真が新聞に載るなんて。もっと違うアングルの写真をたくさん撮っていたやろ、なのによりにもよってこの写真を。もうちょっと小さく端っこに載っているならともかく。
ドイツの新聞は、日本の全国紙と違って、結構地方色豊かです。以前ドイツで働いていた時にも、日本人がドイツの教会で働いているということでインタビューを受け、5、6回新聞記事になったことがあります。
留学の小さな想い出です。
なんかものすごく恥ずかしい。特に主催者でもなければ、このプログラムに最初から積極的に関わっていたわけでもないのに、こんな写真が新聞に載るなんて。もっと違うアングルの写真をたくさん撮っていたやろ、なのによりにもよってこの写真を。もうちょっと小さく端っこに載っているならともかく。
逆にこちらから写真を撮っているところ |
左のオレンジのシャツの人が新聞記者 |
留学の小さな想い出です。
ハイデルベルクのStolperstein(躓きの石) 2
以前お伝えしたように、10月12日は,ハイデルベルクで最初のStolperstein(シュトルパー・シュタイン、躓きの石)がおかれる日です。
午後2時、ドイツの初代大統領フリードリヒ・エーベルトの生家(現在はエーベルト記念博物館)のホールに集まり、記念の会が催されました。主催者の予測を遙かに上回る、およそ200名を越える人があつまり、立ち見、別室での参加が余儀なくされました。
この会の中で、主催者が,わたしたちの運動の哲学は、
犠牲者は何人でしたと語られる一人一人に名前があります。犠牲者を生み出した自分たちの歴史・社会を反省し、その犠牲者の名前を取り戻そうとするのが、この運動です。
午後3時、最初のStolpersteinが,犠牲者がかつて住んでいた家の前の歩道に置かれました。
このStolpersteinを作成したのは、芸術家でドイツでStolperstein運動を進めているグンター・デミング氏です。
今回、その名前がStolpersteinに刻まれた人は、ハンリッヒ・フェーレンツ氏です。
フェーレンツ氏は、ユダヤ人というわけではありませんが反ナチ運動に参加しており、いろいろと情報を交換しあうために、隣国のラジオを聞いていたということです。そのことで逮捕され、あっという間に反政府分子として、処刑されたということです。
このStolpersteinが埋められる前に、彼の甥御さんがその想い出、思いを語られました。彼が処刑されたことが家族に伝えられたときの,彼の妻の叫び声が,今も耳に残っておられるとのことでした。
午後2時、ドイツの初代大統領フリードリヒ・エーベルトの生家(現在はエーベルト記念博物館)のホールに集まり、記念の会が催されました。主催者の予測を遙かに上回る、およそ200名を越える人があつまり、立ち見、別室での参加が余儀なくされました。
この会の中で、主催者が,わたしたちの運動の哲学は、
「犠牲者に名前を帰す」ですと語られたのを非常に印象的に聞きました。
犠牲者は何人でしたと語られる一人一人に名前があります。犠牲者を生み出した自分たちの歴史・社会を反省し、その犠牲者の名前を取り戻そうとするのが、この運動です。
午後3時、最初のStolpersteinが,犠牲者がかつて住んでいた家の前の歩道に置かれました。
グンター・デミング氏 |
今回、その名前がStolpersteinに刻まれた人は、ハンリッヒ・フェーレンツ氏です。
ここに住んでいました。
ハンインリッヒ・フェーレンツ
1908年生まれ
1943年に敵国ラジオを聞いたことで逮捕
シュトゥットゥガルト刑務所
1943年12月22日 処刑
フェーレンツ氏は、ユダヤ人というわけではありませんが反ナチ運動に参加しており、いろいろと情報を交換しあうために、隣国のラジオを聞いていたということです。そのことで逮捕され、あっという間に反政府分子として、処刑されたということです。
このStolpersteinが埋められる前に、彼の甥御さんがその想い出、思いを語られました。彼が処刑されたことが家族に伝えられたときの,彼の妻の叫び声が,今も耳に残っておられるとのことでした。
2010年10月12日火曜日
栗料理 第1弾 ー 栗ご飯 ー
2010年10月11日月曜日
Thingstätte ハイデルベルク
先日のハイキングで、ハイデルベルク城の対岸の山に登ると、山の中に突如としてまるでローマのコロシアムか、古代の野外演芸場かと思うほどの施設が現れます。
一番下に舞台があり、山の斜面を利用してた見上げるほどの階段席がその舞台を半円に囲んでいます。いったい誰が、なんのために造ったのかと思わせる謎の施設です。
これは、Thingstätteと呼ばれる野外演芸場です。Stätte(シュテッテ)はドイツ語の場所という意味ですが、Thingは、英語のsomethingのthing(シング)かと思わせるようなドイツ語ではあまり聞かない言葉です。
あとで家で調べてみると、Thingは英語ではなく、ティングと発音して、古代ゲルマンの民衆の集会場、裁判集会を表す言葉だそうです。
1930年代、ドイツのナチス時代、国家勤労奉仕隊とハイデルベルクの学生たちによって、ナチスのプロパガンダのために造られたものです。
その目的は、
1935年6月22日にこけら落としが行われ、8,000人の席と、5,000人の立ち席があり、初興業には20,000人が集まったと言われています。
ある一定の年齢の日本人はドイツと聞くと、「ローレライ」「ムシデン(さらば、さらば、我が友)」などのドイツ民謡を連想され、また実際に歌える方も多いと思いますが、こういう民謡もヒットラー時代に民族意識の高揚のために用いられていたため、ドイツの戦後世代は全く歌わなくなってしまったということです。
しかし、山の中にこれほどの劇場を造るとは、すさまじい団結力と実行力だったと言えます。しかし、今はもう廃墟となって、4月31日から5月1日になる深夜に祝われるヴァルプルギスの夜・魔女の夜と呼ばれる、春の到来を祝う祭りの時に何千にもの人がここに集まるだけだそうです。まさに「春荒城の花の宴」です。
一番下に舞台があり、山の斜面を利用してた見上げるほどの階段席がその舞台を半円に囲んでいます。いったい誰が、なんのために造ったのかと思わせる謎の施設です。
舞台から観客席を見たところ |
あとで家で調べてみると、Thingは英語ではなく、ティングと発音して、古代ゲルマンの民衆の集会場、裁判集会を表す言葉だそうです。
1930年代、ドイツのナチス時代、国家勤労奉仕隊とハイデルベルクの学生たちによって、ナチスのプロパガンダのために造られたものです。
その目的は、
「共同体験によって、ヒトラーの考えに基づいた新しいドイツ人を形成する」ことでありました。つまり、大勢で劇を見たり、またそこで共に歌ったりすることで、一体感とドイツ人としての民族意識を高めようとしたものです。
1935年6月22日にこけら落としが行われ、8,000人の席と、5,000人の立ち席があり、初興業には20,000人が集まったと言われています。
ある一定の年齢の日本人はドイツと聞くと、「ローレライ」「ムシデン(さらば、さらば、我が友)」などのドイツ民謡を連想され、また実際に歌える方も多いと思いますが、こういう民謡もヒットラー時代に民族意識の高揚のために用いられていたため、ドイツの戦後世代は全く歌わなくなってしまったということです。
しかし、山の中にこれほどの劇場を造るとは、すさまじい団結力と実行力だったと言えます。しかし、今はもう廃墟となって、4月31日から5月1日になる深夜に祝われるヴァルプルギスの夜・魔女の夜と呼ばれる、春の到来を祝う祭りの時に何千にもの人がここに集まるだけだそうです。まさに「春荒城の花の宴」です。
2010年10月10日日曜日
栗、栗、栗、栗のたたり
昨日は、ハイデルベルクで知り合った日本人の方に案内してもらい、ネッカー川の両側にそびえるハイデルベルクの山にハイキングに行ってきました。
最終目的は、その方に栗拾いの穴場に案内してもらい、再び栗拾いにチャレンジです。
すがすがしい秋の日、落ち葉を踏みしめて、ハイデルベルク城の裏山を歩いて行くと、うっそうと茂った森の中に、まるでドラキュラ伯爵の館のような一軒の洋館があります。(ドイツですから全部の建物が洋館ですけど)
その館の横道を通ってさらに深く森の中に入っていくと、、、、、、。
森の道を進んでいくと、落ち葉のプールのような一角があります。
そこを見ると、なんと一面に、栗、栗、栗。
落ち葉のプールどころか、栗のプールのような場所があるではありませんか。
吸い込まれるように、落ちている栗を追っていくと、どんどんと山の方へ、もしくは方向を変えると谷の方へと、何かに導かれていくように道なき道を奥に進んでいきそうになります。
栗はこの見知らぬ侵入者から身を守るために、そのイガグリを次々と落としてきます。高い栗の木から落ちてくるイガは下の落ち葉に突き刺さっているほどですから、頭の上に落ちてきたら、まさにイガグリ頭です。
自然は良くできたもので、おいしい実は自分自身を守るために、そのようなとげを身に纏っています。
そこは、栗と人間の知恵の戦いです。しかし、夢中になって集めていると無防備になり、結構栗のイガがわたしたちの指にタタリました。
小一時間でしょうか、夢中になって袋一杯の栗を集めました。さて、集めてみたものの、一体この栗をどうすれば良いのか????
最終目的は、その方に栗拾いの穴場に案内してもらい、再び栗拾いにチャレンジです。
そこで待ち受けていた栗のたたりのお話。
お城の向かいの山から見た景色 観光客が味会うことのできない絶景です。 |
誰が住んでいるのやら |
館の左の道を入っていきます。 今日はわたしたちを誘うようにこの館の門が開いていました。 |
そこを見ると、なんと一面に、栗、栗、栗。
落ち葉のプールどころか、栗のプールのような場所があるではありませんか。
栗はこの見知らぬ侵入者から身を守るために、そのイガグリを次々と落としてきます。高い栗の木から落ちてくるイガは下の落ち葉に突き刺さっているほどですから、頭の上に落ちてきたら、まさにイガグリ頭です。
自然は良くできたもので、おいしい実は自分自身を守るために、そのようなとげを身に纏っています。
そこは、栗と人間の知恵の戦いです。しかし、夢中になって集めていると無防備になり、結構栗のイガがわたしたちの指にタタリました。
小一時間でしょうか、夢中になって袋一杯の栗を集めました。さて、集めてみたものの、一体この栗をどうすれば良いのか????
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