8月になりました。夏本場といいたいところなのですが。もう涼しい。まるで、もう夏終わっちゃったの?といいたくなるような涼しさです。朝夕は、13−15℃、昼も太陽が出ると少し暑く感じますが20−22℃ぐらいです。タンクトップ、半袖の人もいますが、その横に革ジャンを着ている人もいるという、まあ何とも奇妙な風景です。
先日、日本の知人からセミについて書かれたメールをいただきましたが、ドイツにはセミはいませんから、本当に静かな夏です。
以前、アイスクリームについてお伝えしますと言っていたのに、このままだとあっという間にアイスの季節も終わってしまいます。急いでお伝えいたします。
ドイツでアイス(アイスクリーム)というと、イタリアのジェラートのことです。夏前になるとこのイタリア系のジェラート店(上のお店は「ローマ」というアイスパーラーです)がオープンし、氷点下10℃ぐらいにもなる冬にはしまっています。短い夏の楽しみというところです。
街のどこにも自動販売機のないドイツでは、こどもたちと街に出かけ、疲れて、退屈したこどもたちへの魔法の言葉が「それじゃこれから、アイスを食べよう」「やったーっ、アイス」です。
アイスのお店のケースには20種類近いアイスが並べられています。どれを、いくつ食べるのか決め、コーンにするか、カップにするかを注文しなければなりません。
種類×数×食べ方の組み合わせの問題です。
一人でアイスを注文するのはなんてことないのですが、ドイツ語になれていなかったころ、家族でアイスを食べるときには、この注文に悩まされたものです。
家族に何を食べたいかと聞くと、
「ぼくは、バニラとイチゴ1個ずつ、カップで」(2個、カップ)
「わたしはチョコレート1個で、コーン」(1個、コーン)
「ピスタチオとクルミがいいかな。コーンで」(2個、コーン)
「それじゃ、わたしはティラミスとモカをカップで」(2個、カップ)
といいます。
なんでみんな同じものを同じように注文してくれないんだと思いつつ、しかたがないのでどうやって注文するか考えなければなりません。
行列に並んで、ようやくわたしたちの番になります。
後ろにはたくさんの人が並んでいる中で、この注文を一度にうまくドイツ語で言うにはどうしたらいいでしょうか。(みなさんも考えてみてください)
最初は身振り手振りの注文に、回転よく店を回していきたい店員はイライラしながら、コーンを持ったり、カップを持ったり、一度入れたアイスを元に戻したりしながら対応してくれます。後ろからは、はやくしろよと言わんばかりの視線を(かってに)感じながら、それこそ汗だくでアイスを注文していました。
正解というものはないのですが。わたしたちが覚えたのは、まず
「2玉アイスを3組、1組はカップで2組はコーンで。それから、1玉アイスを1組」
と、これから注文する概要を伝えます。
その上で、それぞれの注文をしていくわけです。
まあ、なんてことはないことですが、これをなれないドイツ語でいう時の難しさ。
よく、知り合いから「日常会話は不自由しませんか?」と聞かれることがありますが。こんな簡単なようで難しいことが日常会話にはたくさんあるので、何とも言えません。
ちなみに、アイスは1玉80セントから1ユーロ(100円から120円)程度です。
ドイツ人のおばあさんたちも食事の後このアイスを3玉ぐらい、もしくは山盛りのパフェをペロリと食べてしまいます。
2010年にドイツ留学を機に始めた「ドイツ滞在日記」の続きとして、日本の日常生活の中で出会ったり、発見したり、経験した躍躍(やくやく:こおどりしたくなる)ような出来事をお伝えします。
2010年8月4日水曜日
2010年8月3日火曜日
ハイデルベルクの橋猿
ハイデルベルクの観光名所の一つに、ハイデルベルクの「橋猿」というのがあります。
アルテ・ブリュッケ(古い橋)と呼ばれる橋のたもとに、観光客をからかうように身構えている猿の像です。
もともと、この橋の近くの壁に彫られていたレリーフで、ハイデルベルクを訪れる人々をからかう言葉がこの猿の横に書かれていました。オリジナルのレリーフは壊れてしまったのですが、1977年に新しい像で再現されました。
この猿が発しているメッセージは古いドイツ語で書かれています。細かいニュアンスは分かりづらいのですが、だいたい次のようなことが書かれています。
Was thustu mich hie angaffen?
Hastu nicht gesehen den alten Affen zu Heidelberg,
sich dich hin und her,
Da findestu wol meines gleichen mehr.
何をじろじろ見てるんだ。
ハイデルベルクの古猿を見なかったか?
あんたの周りを見てごらん
俺と同じようなやつがいっぱいいるだろう。
この猿は左手に鏡を持っており、右手は猿を見ているわたしたちを指さしています。
つまり、「偉そうにしているあんただって、ほらこの鏡を見てごらん、俺と同じ顔しているだろ」と言いたげです。
この猿の横には、以前この近くに穀物倉庫があったので、その象徴として2匹のネズミがいます。
アルテ・ブリュッケ(古い橋)と呼ばれる橋のたもとに、観光客をからかうように身構えている猿の像です。
もともと、この橋の近くの壁に彫られていたレリーフで、ハイデルベルクを訪れる人々をからかう言葉がこの猿の横に書かれていました。オリジナルのレリーフは壊れてしまったのですが、1977年に新しい像で再現されました。
この猿が発しているメッセージは古いドイツ語で書かれています。細かいニュアンスは分かりづらいのですが、だいたい次のようなことが書かれています。
Was thustu mich hie angaffen?
Hastu nicht gesehen den alten Affen zu Heidelberg,
sich dich hin und her,
Da findestu wol meines gleichen mehr.
何をじろじろ見てるんだ。
ハイデルベルクの古猿を見なかったか?
あんたの周りを見てごらん
俺と同じようなやつがいっぱいいるだろう。
この猿は左手に鏡を持っており、右手は猿を見ているわたしたちを指さしています。
つまり、「偉そうにしているあんただって、ほらこの鏡を見てごらん、俺と同じ顔しているだろ」と言いたげです。
この猿の横には、以前この近くに穀物倉庫があったので、その象徴として2匹のネズミがいます。
2010年8月2日月曜日
Laudate omnes gentes ある礼拝の中での思い
現在、ほとんど家で仕事をしているので、何かおもしろいことが身近で起こることがあまりなく、ブログに投稿することもなかったのですが、今日(8月1日・日曜日)、いつもいっている聖霊教会の礼拝に出ながら、いろいろと考えさせられました。
今日は、ハイデルベルクマン大会(トライアスロン競技)が開催されたので、街の中は少し賑やかな雰囲気でした。家から、健康のために小1時間ほどかけて教会まで歩いて行ったのですが、礼拝が始まる10分ほど前、この橋さえ渡れば教会に着くというところで、トライアスロンのためにその橋が通行止めになっていることが分かりました。もちろん、橋など10mおきにあるわけがなく、次の橋まで進み、また後戻りするしかありません。
なんとか、教会にたどり着いたころには、最初の賛美歌が始まっているころでした。礼拝堂に入ろうとすると教会役員の方が
「今は、礼拝中です。入らないでください」
とわたしたちの入場を阻止するわけです。それも、当然といえば当然で、聖霊教会はハイデルベクルの観光名所の一つであり、たくさんの観光客がこの教会を訪れます。礼拝中に、興味本位で入ってこられて、礼拝堂をうろうろし、写真でも撮り始められたら、迷惑な話です。ですから、教会役員が礼拝堂の扉のところで、観光客らしき人の入場を阻止しているのです。
「わたしたちは、その礼拝に来たんです」、というと
「どうもすみません。すみません。」と丁寧に謝られて、中に入れてくれました。
小1時間歩いて、さらに遠回りまでしてきて、「入らないでください」と言われたことで、いろいろなことが頭の中でグルグルと思い巡らされました。
さらに、もう一つ、ちょうどその教会の横の広場が、トライアスロンの通過地点になっているので、広場には一杯の人が集まって歓声を上げ、走ってきた選手に拍手をし、指笛を鳴らして激励しています。その一方で、閑散とした礼拝の静かなこと、荘厳ではありますが、躍動感のない雰囲気が対照的でした。
説教も、外の歓声にかき消されて、ただでさえドイツ語を聞き取るのに苦労するわたしの耳には全く入ってきません。
教会の外のいのちの躍動感に満ちた雰囲気
人々がお互いを喜び合い、励まし合う声
教会の中の静かで沈んでいくような雰囲気
礼拝に入るなと言われた(しかたがないけれど)声
このコントラストの中で、一体自分はここで何をしているんだろうか。礼拝って一体何なの。ここにイエスが共にいるんだろうかというような思いがこみ上げてきました。
日本の教会でも、「どなたでもおいでください」と言いながら、おそらく「今は礼拝中ですから、入らないでください。ここは教会ですから、入らないでください」というオーラや雰囲気を出していたり、言葉にしているんじゃないのかな、自分もそういうバリアを張っていたんじゃないだろうかと、外国人(見知らぬ人、不慣れな人、得体の知れない人、外から来た人)になってみて、あらためて考えさせられました。
外の歓声とわたしの考えで何の一言も残らなかった説教の後、聖餐式が行われました。パンをいただいた後、オルガンの伴奏に合わせてみんなが「Laudate omnes gentes」という短い歌を繰り返し、繰り返し歌いました。「すべての人よ、主をたたえよ」という意味のラテン語の歌です。その時初めて、外の多くの人が人々をたたえている歓声が消え、自分たちの中にも歓声が起こってきたような思いになりました。ぶどう酒をいただいた後にも、同じように「Laudate omnes gentes」を歌いました。
それから、席に戻り、座って上を見上げると、説教壇の上に立っているイエスが、なんだか自分の方を向いているような気持ちになりました。
その時、イエスが何をわたしに語りかけたのか、今はそれをどう表現すればいいのか、言葉を探しているところです。
礼拝が終わった後、礼拝に来ていたドイツ人の知り合いの学生と、トルコ料理のケパプを食べながら、礼拝の中での経験をいろいろと話をしました。彼女もやはり「Laudate omnes gentes」を歌ったときに、初めて自分は礼拝に来ているという思いになったと語り、ひとしきり礼拝について話した後、また歩いてそれぞれの家に帰る、そんな日曜日でした。
ああ、今日から8月、ドイツ留学ももう四ヶ月が過ぎてしまいました。
Laudate omnes gentes すべての人よ、主をたたえよ
Laudate omnes gentesはフランスのテゼ共同体やその集会でよく歌われている歌です。YouTubeの動画で聞いてみてください。
今日は、ハイデルベルクマン大会(トライアスロン競技)が開催されたので、街の中は少し賑やかな雰囲気でした。家から、健康のために小1時間ほどかけて教会まで歩いて行ったのですが、礼拝が始まる10分ほど前、この橋さえ渡れば教会に着くというところで、トライアスロンのためにその橋が通行止めになっていることが分かりました。もちろん、橋など10mおきにあるわけがなく、次の橋まで進み、また後戻りするしかありません。
なんとか、教会にたどり着いたころには、最初の賛美歌が始まっているころでした。礼拝堂に入ろうとすると教会役員の方が
「今は、礼拝中です。入らないでください」
とわたしたちの入場を阻止するわけです。それも、当然といえば当然で、聖霊教会はハイデルベクルの観光名所の一つであり、たくさんの観光客がこの教会を訪れます。礼拝中に、興味本位で入ってこられて、礼拝堂をうろうろし、写真でも撮り始められたら、迷惑な話です。ですから、教会役員が礼拝堂の扉のところで、観光客らしき人の入場を阻止しているのです。
「わたしたちは、その礼拝に来たんです」、というと
「どうもすみません。すみません。」と丁寧に謝られて、中に入れてくれました。
小1時間歩いて、さらに遠回りまでしてきて、「入らないでください」と言われたことで、いろいろなことが頭の中でグルグルと思い巡らされました。
さらに、もう一つ、ちょうどその教会の横の広場が、トライアスロンの通過地点になっているので、広場には一杯の人が集まって歓声を上げ、走ってきた選手に拍手をし、指笛を鳴らして激励しています。その一方で、閑散とした礼拝の静かなこと、荘厳ではありますが、躍動感のない雰囲気が対照的でした。
説教も、外の歓声にかき消されて、ただでさえドイツ語を聞き取るのに苦労するわたしの耳には全く入ってきません。
教会の外のいのちの躍動感に満ちた雰囲気
人々がお互いを喜び合い、励まし合う声
教会の中の静かで沈んでいくような雰囲気
礼拝に入るなと言われた(しかたがないけれど)声
このコントラストの中で、一体自分はここで何をしているんだろうか。礼拝って一体何なの。ここにイエスが共にいるんだろうかというような思いがこみ上げてきました。
日本の教会でも、「どなたでもおいでください」と言いながら、おそらく「今は礼拝中ですから、入らないでください。ここは教会ですから、入らないでください」というオーラや雰囲気を出していたり、言葉にしているんじゃないのかな、自分もそういうバリアを張っていたんじゃないだろうかと、外国人(見知らぬ人、不慣れな人、得体の知れない人、外から来た人)になってみて、あらためて考えさせられました。
外の歓声とわたしの考えで何の一言も残らなかった説教の後、聖餐式が行われました。パンをいただいた後、オルガンの伴奏に合わせてみんなが「Laudate omnes gentes」という短い歌を繰り返し、繰り返し歌いました。「すべての人よ、主をたたえよ」という意味のラテン語の歌です。その時初めて、外の多くの人が人々をたたえている歓声が消え、自分たちの中にも歓声が起こってきたような思いになりました。ぶどう酒をいただいた後にも、同じように「Laudate omnes gentes」を歌いました。
それから、席に戻り、座って上を見上げると、説教壇の上に立っているイエスが、なんだか自分の方を向いているような気持ちになりました。
その時、イエスが何をわたしに語りかけたのか、今はそれをどう表現すればいいのか、言葉を探しているところです。
礼拝が終わった後、礼拝に来ていたドイツ人の知り合いの学生と、トルコ料理のケパプを食べながら、礼拝の中での経験をいろいろと話をしました。彼女もやはり「Laudate omnes gentes」を歌ったときに、初めて自分は礼拝に来ているという思いになったと語り、ひとしきり礼拝について話した後、また歩いてそれぞれの家に帰る、そんな日曜日でした。
ああ、今日から8月、ドイツ留学ももう四ヶ月が過ぎてしまいました。
Laudate omnes gentes すべての人よ、主をたたえよ
Laudate omnes gentesはフランスのテゼ共同体やその集会でよく歌われている歌です。YouTubeの動画で聞いてみてください。
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