2010年8月2日月曜日

Laudate omnes gentes ある礼拝の中での思い

現在、ほとんど家で仕事をしているので、何かおもしろいことが身近で起こることがあまりなく、ブログに投稿することもなかったのですが、今日(8月1日・日曜日)、いつもいっている聖霊教会の礼拝に出ながら、いろいろと考えさせられました。

今日は、ハイデルベルクマン大会(トライアスロン競技)が開催されたので、街の中は少し賑やかな雰囲気でした。家から、健康のために小1時間ほどかけて教会まで歩いて行ったのですが、礼拝が始まる10分ほど前、この橋さえ渡れば教会に着くというところで、トライアスロンのためにその橋が通行止めになっていることが分かりました。もちろん、橋など10mおきにあるわけがなく、次の橋まで進み、また後戻りするしかありません。

なんとか、教会にたどり着いたころには、最初の賛美歌が始まっているころでした。礼拝堂に入ろうとすると教会役員の方が
「今は、礼拝中です。入らないでください」
とわたしたちの入場を阻止するわけです。それも、当然といえば当然で、聖霊教会はハイデルベクルの観光名所の一つであり、たくさんの観光客がこの教会を訪れます。礼拝中に、興味本位で入ってこられて、礼拝堂をうろうろし、写真でも撮り始められたら、迷惑な話です。ですから、教会役員が礼拝堂の扉のところで、観光客らしき人の入場を阻止しているのです。

「わたしたちは、その礼拝に来たんです」、というと
「どうもすみません。すみません。」と丁寧に謝られて、中に入れてくれました。
小1時間歩いて、さらに遠回りまでしてきて、「入らないでください」と言われたことで、いろいろなことが頭の中でグルグルと思い巡らされました。

さらに、もう一つ、ちょうどその教会の横の広場が、トライアスロンの通過地点になっているので、広場には一杯の人が集まって歓声を上げ、走ってきた選手に拍手をし、指笛を鳴らして激励しています。その一方で、閑散とした礼拝の静かなこと、荘厳ではありますが、躍動感のない雰囲気が対照的でした。

説教も、外の歓声にかき消されて、ただでさえドイツ語を聞き取るのに苦労するわたしの耳には全く入ってきません。


教会の外のいのちの躍動感に満ちた雰囲気
人々がお互いを喜び合い、励まし合う声


教会の中の静かで沈んでいくような雰囲気
礼拝に入るなと言われた(しかたがないけれど)声

このコントラストの中で、一体自分はここで何をしているんだろうか。礼拝って一体何なの。ここにイエスが共にいるんだろうかというような思いがこみ上げてきました。

日本の教会でも、「どなたでもおいでください」と言いながら、おそらく「今は礼拝中ですから、入らないでください。ここは教会ですから、入らないでください」というオーラや雰囲気を出していたり、言葉にしているんじゃないのかな、自分もそういうバリアを張っていたんじゃないだろうかと、外国人(見知らぬ人、不慣れな人、得体の知れない人、外から来た人)になってみて、あらためて考えさせられました。

外の歓声とわたしの考えで何の一言も残らなかった説教の後、聖餐式が行われました。パンをいただいた後、オルガンの伴奏に合わせてみんなが「Laudate omnes gentes」という短い歌を繰り返し、繰り返し歌いました。「すべての人よ、主をたたえよ」という意味のラテン語の歌です。その時初めて、外の多くの人が人々をたたえている歓声が消え、自分たちの中にも歓声が起こってきたような思いになりました。ぶどう酒をいただいた後にも、同じように「Laudate omnes gentes」を歌いました。


それから、席に戻り、座って上を見上げると、説教壇の上に立っているイエスが、なんだか自分の方を向いているような気持ちになりました。

その時、イエスが何をわたしに語りかけたのか、今はそれをどう表現すればいいのか、言葉を探しているところです。

礼拝が終わった後、礼拝に来ていたドイツ人の知り合いの学生と、トルコ料理のケパプを食べながら、礼拝の中での経験をいろいろと話をしました。彼女もやはり「Laudate omnes gentes」を歌ったときに、初めて自分は礼拝に来ているという思いになったと語り、ひとしきり礼拝について話した後、また歩いてそれぞれの家に帰る、そんな日曜日でした。

ああ、今日から8月、ドイツ留学ももう四ヶ月が過ぎてしまいました。

Laudate omnes gentes すべての人よ、主をたたえよ
Laudate omnes gentesはフランスのテゼ共同体やその集会でよく歌われている歌です。YouTubeの動画で聞いてみてください。

2 件のコメント:

  1. 8月1日付けのブログ、心を動かされながら、また考えさせられながら拝見しました。
    「うち」側の荘厳と静寂(「入らないでください」と言ってしまえる感覚も含め)。
    「そと」から聞こえてくる「いのちの躍動感」と「お互いを喜び合い励まし合う声」。
    この象徴的な落差を具体的な体験でしめしていただいたように感じ、あらためて自分の現場の『教会』の在りようとか、『礼拝』のかたちについて考えさせられたことでした。
    思わず指笛を吹きたくなり、小躍りしたくなる生きた「説教」を聴き、お互いを喜び合い励まし合う姿が脈打つ『教会』でありたいと・・・。
    多分、イエスは、「入ってはいけません」と言われた礼拝堂にはおられず、礼拝後のお食事の語りあい、分かち合いの場におられたのではないでしょうか。

    「すべての人よ 主をたたえよ♪」を動画で聴きました。この歌は、超教派のメンバーで持つ小さな礼拝でよく歌います。この歌を何回もリフレインしていくうちに、気持がつながって(神と人とに)いく気持になりますね。

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  2. リリスさん
    コメントありがとうございます。「入らないでください」と言われた役員の方も、「おそらくこんな仕事したくはない。どうしてこんな嫌なことを言わなきゃいけないんだろう」と思っておられたんじゃないでしょうか。何しろ人口14万人ほどの町に、年間350万人の観光客が来るわけです。1日平均1万人です。その人たちがこの教会をのぞいていきます。

    リリスさんのおっしゃるとおりに、礼拝を何とかしたいですね。ドイツでもそのことが大きなテーマみたいです。ある教授から、この秋の学期におこなう「新しい礼拝」というゼミにぜひ出てみてくださいと誘われています。また、そんな話もお伝えしたいと思います。

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