さて、この絵の中で「イエスの誕生物語」の色彩(青)と、右隣の「新しいエルサレム」の色彩(赤)とが出会っているというか、移り変わっているのが分かります。そしてその真ん中には復活を表す白い光が描かれています。
そこにはイエス自身は描かれていませんが、そこに置かれたワイングラスとパン、また赤い弟子が語りかけるように見上げている目線で、そこに誰かがいることが分かります。もしくは物語通り、弟子たちがこの人がイエスだと分かった瞬間に見えなくなってしまったとも言えますが、しかし、そこにはしっかりと復活の光が描かれています。
手前には、3つの書物が置かれていますが、右手前からイザヤ53:5の苦難の僕の言葉、その奥にはルカ24:26のメシアの苦しみの意味の言葉です。そして左にはプラトンの『国家』の1節で「不義を愛するものは、義なるものを苦しめ、十字架につける」(抄訳)ということが書かれています。なぜプラトンかということは、別の絵との繋がりがあります。つまり、旧約、新約、ギリシャ哲学がキリストの十字架と復活の意味を言い表している子とをこの3つの本で表現しています。


これは聖書物語の再現画、聖書の挿絵ではありません。ケーダー師によるキリスト教解釈の絵です。このことは、この後の絵で、もっと重要なモティーフになっていきます。
グラスもパンも、ロウソクも現代のものです。だからこそ、わたしたちに問いかけてくるものがあります。
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