祭壇画の真ん中には復活を象徴するエマオ途上の物語(ルカ24:13−35)が描かれています。二人の弟子が、復活したイエス(だとは気づかずに、一人の男)と共に食事をしている場面です。ジーガー・ケーダー神父はイエスを明確には描きません。むしろイエスの周りにいる人がどのような表情をし、その人にいったい何が起こったのかを描くことで、イエスとはどういう人であるかを表現しています。この前に紹介した中世の画家たちは「父と子と聖霊」を描くことで、三位一体論を表現しようとしましたが、ケーダー師はイエスの周りの人間を描くことでキリスト教のテーマを描いているわけです。
さて、この絵の中で「イエスの誕生物語」の色彩(青)と、右隣の「新しいエルサレム」の色彩(赤)とが出会っているというか、移り変わっているのが分かります。そしてその真ん中には復活を表す白い光が描かれています。
そこにはイエス自身は描かれていませんが、そこに置かれたワイングラスとパン、また赤い弟子が語りかけるように見上げている目線で、そこに誰かがいることが分かります。もしくは物語通り、弟子たちがこの人がイエスだと分かった瞬間に見えなくなってしまったとも言えますが、しかし、そこにはしっかりと復活の光が描かれています。
手前には、3つの書物が置かれていますが、右手前からイザヤ53:5の苦難の僕の言葉、その奥にはルカ24:26のメシアの苦しみの意味の言葉です。そして左にはプラトンの『国家』の1節で「不義を愛するものは、義なるものを苦しめ、十字架につける」(抄訳)ということが書かれています。なぜプラトンかということは、別の絵との繋がりがあります。つまり、旧約、新約、ギリシャ哲学がキリストの十字架と復活の意味を言い表している子とをこの3つの本で表現しています。
青い服の弟子の背後には、ゴルゴダの丘の3つの十字架が描かれています。そしてその前には、今まさにここで食事をしている弟子たちが道を歩きながら話をしているシーンが描かれています。興味深いことに、この二人の後ろには3つの影があり、その真ん中の影の頭には円光が描かれています。もちろん、弟子たちが誰だか分からなかったイエスです。
右側には、この宿屋から旅立っていったこの二人の弟子たちの姿があります。一人は復活の光を表すイースター・キャンドルをかかげ、もう一人は冬の後春に花が咲いたアーモンドの木の枝,つまり新しいいのちの象徴をかかげて、喜びに満ちています。
これは聖書物語の再現画、聖書の挿絵ではありません。ケーダー師によるキリスト教解釈の絵です。このことは、この後の絵で、もっと重要なモティーフになっていきます。
グラスもパンも、ロウソクも現代のものです。だからこそ、わたしたちに問いかけてくるものがあります。
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