2010年6月7日月曜日

ステンドグラス in ハイデルベルク −2−

以前、聖霊教会のステンドグラスについてお伝えしましたが、実は前回お伝えした物理学部のステンドグラスの他に、いくつか学部を表現したステンドグラスが計画されていました。

上から、医学部、生物学部、音楽学部、哲学・文学学部です。それぞれの意味を考えてみてください。

ところが、物理学部のステンドグラスが出来た後、この教会で論争が起こり、このステンドグラス計画が中断してしまったのです。


広島をモチーフにした物理学部のステンドグラスを見た人たちの中で、意見が二つに分かれてしまったそうです。




1つは、
「わたしたちは日常生活の中でこのような現実の問題に取り組んでいるのだ。日曜日までその問題を見たくはない。むしろ日曜日の礼拝においては、そういう現実から解放され、神の言葉を聞きたい。そうすることによってこそ、また現実の問題に取り組んでいく力を得るものだ」
という意見です。もちろんこの人たちはさらに同じようなステンドグラスを設置していくことに反対です。


もう一つは、
「教会の礼拝というものは、現実問題から乖離したところで行われるものではない。説教の言葉もまさにそういう問題の中でこそ語られるべきものである。教会はこの世界の現実のただ中でこそ、語るべき言葉を持つべきだ」
という意見です。この人たちは推進派です。


結局、意見の収集がつかず、物理学部のステンドグラスが出来たのち、この計画はおじゃんになり、ステンドグラス作家(シュライター氏)にとっては残念な結末になってしましました。


みなさんはどう思いますか。

現在、このステンドグラス作家の新しい作品が、大学教会のペテロ教会で作られつつあります。

今度はそちらのステンドグラスを紹介します。

2 件のコメント:

  1. りっちゃん2010年6月7日 14:48

    たいへん興味深く読ませていただきました。特に、物理学部のステンドグラス論争の二つの意見、まさに、教会の在りようの二つのタイプを象徴しているようでわかりやすいですよネエ。
    一つめの意見の場合、その後半にある「・・・・。そうすることによってこそ、また現実の問題に取り組んでいく力を得るものだ」とのことですが、私の見る限り、その立場の方は、現実の課題には距離を置いて自己完結しているように見えますけどねえ。
    人は、教会ではこう、日常現実現場ではこう、って分離させて生きられるものなのか? と、ステンドグラス論争を拝見しつつ思ったりでした。

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  2. 音楽なら楽譜、医学なら心電図ですね。誰が見ても一見わかりやすいステンドグラスで、見る側に対して自分なりに好きなように受け止める余地というか自由な感じがちょっとすくなかったのかな、と思いました。
    「どんなメッセージが?」とおもう人がよく見たらほうほうという感じで。反対にぼーっと色や雰囲気を鑑賞したい人は感覚だけで鑑賞したらいいとおもいます。

    写真の細かく見たらメッセージがこめられているんだろうなぁとおもいます。どんなメッセージなんだろう?興味があります。

    ステンドグラスについての2つの意見は、どっちがどうというのは言い切れないと思います。どっちの側面もあって、だからこそ教会に行く日曜日は前の平日のリセットの役割にもなり、次の平日への入り口にもなるんじゃないでしょうか~。

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