2010年6月7日月曜日

教会の日常性と非日常性 −コメントへの応答ー

前回のステンドグラス論争についてのコメントへの応答の一つとして、あるベルリンの教会の礼拝堂を紹介します。
ハイデルベルクのステンドグラス論争も、この教会の礼拝堂も私の説教学の時間に「教会の日常性と非日常性」について話し合う時のきっかけとして紹介しているものです。

ベルリンの教会は12年ほど前に訪問した時に、衝撃を受けました。ベルリンにプリョツェンゼー(Plötzensee・プレッツェンゼーという表記もあります)のこの教会に訪問した時に、その礼拝堂の造りに驚きました。この教会というか、比較的新しく建てられた教会センターの中にある礼拝堂は、聖餐卓を真ん中にして、四方を会衆席が囲み、その四角の一角にオルガンとその対角線上に説教台がある作りです。写真を見てもらうと想像がつくでしょうか。

それだけでしたら、聖餐卓を囲む礼拝を意識した構造の礼拝堂だと言えます。それ自身も大きな驚きだったのですが、会衆席に座って礼拝堂の壁を見てみると、白黒で絵が描かれています。右手奥の絵が見えると思います。

一般的な教会だと聖書の一場面が書かれていることが多いのですが、その教会は違っていました。

下の絵が描かれていたのですが、これは何かお分かりでしょうか。




これは、第二次世界大戦下におけるドイツの監獄の一室で、処刑されている場面です。この礼拝堂では、この絵(現実)を見ながら礼拝を守っています。この絵(現実)を見ながら聖餐卓を囲んでいます。説教が語られ、賛美歌が歌われています。この絵は邪魔でしょうか。それとも、この絵はこの絵(現実)に相応しい礼拝、説教、祈りを求めるチャレンジなのでしょうか。

もちろん、この絵は単にドイツのナチス時代の悲惨な出来事だけを表しているわけではありません。人類の様々な悲惨さ、アパルトヘイト、南京大虐殺、広島・長崎、ベトナム戦争、湾岸戦争、民族紛争、貧困、虐待、DV などさまざまな暴力を連想させます。

多くの人が、こんな暗くて悲惨な絵を見ながら礼拝を守りたくないと言うでしょう。その気持ちも分からなくはないです。しかし、十字架にかけられ血を流すイエスとこの絵は何が違うのでしょうか。

実は、プリョツェンゼーのこの教会の横に、かつての監獄・処刑場があります。そこでは1933年から1945年までに2891人の人が処刑されたということです。その半数がナチスに抵抗したドイツ人、後はチェコスロバキア人、フランス人、ポーランド人でした。その処刑場が現在も残されており、そこを訪れた後にも教会を訪問しました。それは大きなショックでしたが、大きなチャレンジでもありました。

日本でも、教会の周りで、また教会そのものが様々な出来事を経験してきましたが、その出来事と教会建築や礼拝堂におけるモニュメント、飾り、シンボルがどのような関係にあるのだろうと考えてしまいます。
もちろん、これが正解ですというものはありません。またこういう問題がハイデルベルクの教会のように教会を二分してしまうかもしれないという懸念もあります。そんな悲惨な現実を見たくない、早く忘れてしまいたいという人も多いでしょう。でも、忘れてしまうことが出来ない現実がそこにあるというのも事実です。


何もなかったように教会がそこに建ち、礼拝が守られていることももどうなのでしょうか。それにもまして、そんなことみじんも考えなかった、まったくそんな発想もなかったということの方が憂慮すべきことかもしれません。

ドイツの教会がみんなこういう教会だというわけではありませんが、少なくともこの教会はこの現実の中で礼拝を守っています。

2 件のコメント:

  1. 人間がしてきた多くの悲惨なことを口では色々言いつつ本当は自分ではない誰かのしたことと思い
    「私たちのために死んでくださった」という表現がよくなされるイエスの磔刑も、私たちががイエスを殺したというようには考えないことが、ままあります。
    そういう意味で、自分達にとって非日常なことも、日常として教会でこそ受け止め続けるべきかもしれませんね。
    どこの教会でも全面にそういうメッセージがデーンと出ているとちょっとどうかなともおおってしまいますが。
    教会堂や教会のあり方についてかんがえさせられました。

    非日常は、日常へ戻っていくためのものだけではなく、日常を考える場所でもあるのかもしれないです。

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  2. りっちゃん(リリス)2010年6月12日 12:46

    人間(われわれ)が冒した悲惨な「現実」を忘却の彼方に追いやることをせず、そこで、聖餐卓を囲み、メッセージを聴き、讃美歌をうたって礼拝を守っているという教会が実際にあることを視覚的に示され、衝撃を受けました。
    そこがドイツの教会であるということと、その国の大統領ワイツゼッカーが、敗戦40周年、あの「過去に目を閉ざす者は、現在も・・・」との演説をしたこととをつなげて考えさせられました。自分たちの加害者性から逃げない姿なのですね。
    中道さんのコメントを読みつつ4枚目の十字架上のイエスの絵を見ながら、多分、日本の多くの教会では、柔和な表情の「白人」のイエスの絵画を壁に貼ってはいても、ローマ権力への反逆者、政治犯への処刑方法だったという十字架刑で血を流しているイエスの絵を貼りだしているところは少ないのではないだろうか・・と思ったりでした。
    今いま、起こっている「現実状況」を無いかのようにして、「わたしたちの罪のために死んでくださった」とさらりと言いながら粛々と進む礼拝の姿が良しとされるなら、ⅩⅤⅠさんがおっしゃるように「“わたしたちがイエスを殺した”というようには考えない」ことに向かうということになりましょう。
    こうしたことを教会全体で考えあいたい、との思いはありますが、難しいだろうなあ・・・・と思ってしまうカナシイ現実です。
    1年後、戻られたら、「帰国」報告のような場を持って触発していただけますか?

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