小説家の小川洋子さん(『博士の愛した数式』など)と神経生態学者の岡ノ谷一夫さんの対談を本にした『言葉の誕生を科学する』(河出ブックス)を読んで色々と考えさせられることがありました。
岡ノ谷さんは、「人間の言葉の起源は歌にある』という理論を掲げています。言葉の進化ではなく、言葉がなかったところから言葉が生まれてくる「起源」の探求です。そこで言葉を持たない小鳥のさえずり(歌)を研究することを通して、言葉の起源を探ろうとされています。
言葉の起源を生態学的に研究する科学者と、言葉を生業としている小説家の対談はなかなか興味深いものでした。ここではそのすべてを紹介することはできませんが、小川さんがおっしゃった次の言葉が非常に印象に残っています。
「他者とのつながりを強化する方向に注がれるエネルギーと、自己を探求するエネルギー、このバランスが崩れているのかもしれません。たぶん、本が読まれなくなったというのもそこにつながっていくんでしょうね。自己について深く思索する必要を感じないなら、本を読まなくてもいっこうに構わない。自己と対話する機会がなくても、いくらでも他人と対話することで紛らわすことができる」(77頁)。
この言葉を読んでいて思ったことは、メールやインターネット上のソーシャルコミュニケーション(Facebookなど)がはやって、「つながる」「つながっている」ということがとても大切なこととして語られ、また簡単に実現できるけれど、「つながっている」ことと「わかりあえている」ということとは別なことではないのだろうかということです。現代は「つながっているけれど、わかり合えていない」ということが多いのではないかとおもいます。そして、わかり合うためには、わかり合えていないという苦しみを越えなければならないし、そのためには自分ともっと深く対話しなければならないのではないでしょうか。
そんなことを考えて、今日、映画『阪急電車』を見ると、その中にこのテーマが描かれていることに気がつきました。多くの人がつながっている(仲間になっている)けれど、本当に理解し合えていないことに悩んでいます。そんな人たちが、阪急電車の宝塚線で出会うことで、自分自身の心の声と対話することができるようになり、一人一人がエンパワーされていくのです。なかなか良い映画でした。関学が何回も出てきます。わたしたちも夫婦で映画に行くと2000円で見られるようになりました。嬉しいような、悲しいような。
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