2010年4月16日金曜日

講演、そして神学生との会話

昨日は、ハイデルベルク大学のアジア−ヨーロッパ交流研究所主催の講演会「日本に来たグーテンベルク:イエズス会宣教プレス(1590−1620)」に行ってきました。日本にもたらされたヨーロッパの印刷技術、ある意味情報革新技術が日本における宣教、神学教育、そしてまた日本文化にどのような影響を与えたかという内容でした。とても興味深く、また様々なアジア人やドイツ人がこのような内容に非常に大きな興味を持ち、熱心に議論を交わす姿に接すると、とても刺激を受けます。また、自分自身が、日本人としてどれだけ日本のことを知っているのだろうと、反省させられます。

この講演の後、日本学を副専攻にしている神学生といろいろと話し合いました。

今日のドイツの教会の話、教会の衰退の話になったとき、「教会に人が来ないのは、残念なことだけれども、良い面もある」ということでした。つまり、昔はドイツも相互管理社会的な面があり、教会に来ないと近所の人から批判されたそうです。他の人からは、100年ぐらい前までは、日曜日に教会に来ないと警官が注意に来たという話を聞いたことがあります。また、地域の中では教会は出会いの場であり、若い人たちにとっては異性と出会う場であったそうです。15年ほど前にも、ある父親から、自分のこどもが幼児洗礼を受けていないので、地域で白い目で見られるという話も聞きました。そういう社会の中で成り立っている教会であったわけです。

現代は、そういう監視社会の縛りも、また閉鎖的な社会もなくなり、みんなが自由に自分の好きなものを、自分の価値観に基づいて選択することができる社会(マルチオプション社会)になったわけです。出会いの場も何も教会でなくても、様々な可能性が周りにあります。

そこで、いまこそ教会の真価が問われている。教会が人々から積極的に選ばれる場にならなければならないということです。

これは、日本でも同じことではないでしょうか。日本は、日曜日に出かけようとすると近所の人から「どちらにお出かけですか」と聞かれるような、教会に行くことを逆に監視されていた社会ですが、まだ、教会はアメリカやヨーロッパ文化の接点という市民権を持っていたように思います。それが、いまやそんなことは何の意味もありません。別に教会に過なくても、欧米文化に触れることはできますし、ハイデルベルクには毎日何十人もの日本人観光客がやってきています。

ただ、教会はこの不慣れな状況の中で、何をしていいのか分からないでいるような感じがします。その上、人々は教会の言葉だけが先行して、実感を持つことができない礼拝、身体性を失ってただ聞いて、頭で理解するだけの教会に魅力を感じなくなっているということです。言葉だけ、頭でっかちな教会は廃れていっています。

そこで、昨日のブログでも書いたスピリチュアリティーという言葉が人々の関心を引きつけています。教会もこのスピリチュアリティーというはやりの洋服を着て、時代についていこうとして傾向があるのではないかと思えるときがあります。

でも、教会が、またキリスト教が魅力的なはやりの服を着たマネキンであったとするならば、このマルチオプション社会の中では、服は買っても誰もマネキンを家に持って帰ろうとはしません。

このことは、日本が過去150年に経験したことではないでしょうか。ヨーロッパから来たキリスト教文化や習慣(クリスマス、結婚式、教育)という外側の洋服は魅力的であったので受け入れられましたが、中身はどうだったのでしょうか。

そんな話を、コーヒーを飲みながら2時間ばかりしていました。8時前に店を出て、その神学生は「図書館は10時まで開いているから、ちょっといって勉強してくる.講義に出席する準備をしなくちゃ」と自転車で街の中に消えていきました。

今週初めから春学期が始まり、急に街中が学生であふれています。

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