2010年6月7日月曜日

ステンドグラス in ハイデルベルク −2−

以前、聖霊教会のステンドグラスについてお伝えしましたが、実は前回お伝えした物理学部のステンドグラスの他に、いくつか学部を表現したステンドグラスが計画されていました。

上から、医学部、生物学部、音楽学部、哲学・文学学部です。それぞれの意味を考えてみてください。

ところが、物理学部のステンドグラスが出来た後、この教会で論争が起こり、このステンドグラス計画が中断してしまったのです。


広島をモチーフにした物理学部のステンドグラスを見た人たちの中で、意見が二つに分かれてしまったそうです。




1つは、
「わたしたちは日常生活の中でこのような現実の問題に取り組んでいるのだ。日曜日までその問題を見たくはない。むしろ日曜日の礼拝においては、そういう現実から解放され、神の言葉を聞きたい。そうすることによってこそ、また現実の問題に取り組んでいく力を得るものだ」
という意見です。もちろんこの人たちはさらに同じようなステンドグラスを設置していくことに反対です。


もう一つは、
「教会の礼拝というものは、現実問題から乖離したところで行われるものではない。説教の言葉もまさにそういう問題の中でこそ語られるべきものである。教会はこの世界の現実のただ中でこそ、語るべき言葉を持つべきだ」
という意見です。この人たちは推進派です。


結局、意見の収集がつかず、物理学部のステンドグラスが出来たのち、この計画はおじゃんになり、ステンドグラス作家(シュライター氏)にとっては残念な結末になってしましました。


みなさんはどう思いますか。

現在、このステンドグラス作家の新しい作品が、大学教会のペテロ教会で作られつつあります。

今度はそちらのステンドグラスを紹介します。

2010年6月3日木曜日

フランケンシュタイン自転車

自宅から神学部までは約4Kmほど離れているので、だいたい自転車で行きます。道を選ぶと信号を通らなくてもいけるので、だいたい20分ほどの道のりです。
今日も、半分ぐらいいったところで、なんだか右足がすかっと抜けた感じになり、足元を見てみると自転車のペダルがありません。よく見てみるとペダルとクランクアームをつないでいる直径1.5cmほどの鉄の芯が折れてしまっています。「なにーっ!こんなことがあるんか?」と思っても仕方がないので、しぶしぶ方向転換をして自転車屋さんに逆戻りをしました。
以前、4月の始めに、中古自転車を買ったことをブログに書きました。その後2ヶ月が経ちましたが、いろいろなところが壊れてきて、ちょっと辟易していたところでした。

自転車のスタンドの長さを調整するネジが緩んで、ふと見るとスタンドの一部が無くなっていました。来た道を戻ると、その部品が落ちていました。自転車屋に持っていくと、ネジを締めてくれましたが、その1週間後にまた外れてしまいました。また持っていくと、自転車の振動でネジが緩むのだというのです。「たった1週間で????」と言い返しましたが、仕方がないというのです。もちろん新しいものに取り替えてもらうことはできますが、しゃくに障るので、テープでぐるぐる巻にして取れなくしました。

サドルの高さを決めるネジがゆるゆる。自転車に乗っていると、段々とサドルが下がってきます。また、締めてもらいました。

ギアの一部のネジが緩んで、ギアが変わらない。これも直してもらいました。

荷台の一部ノネジが緩んで、無くなっていました。その辺にあったネジを付けてもらいました。

電気がつかない。見てもらうと、コードが傷んでいて、換えないといけない。一晩あずけて、5ユーロ(600円)払いました。

これで、もう大丈夫だと思っていた矢先に、ペダルが折れるという、想像もしなかったアクシデントに唖然としました。
自転車屋に持っていくと、「ペダルを替えないといけないな」といって、そこに積み上げている中古の部品の中から「これが合うんじゃないかな」と取り出し、付け替えてくれました。もちろん左右微妙に違うペダルです。「まあ、2ユーロでいいわ」といわれました。

壊れた部品の山、たくさんの中古自転車。きっと、こうやってまだ使える部品を組み合わせて、自転車を組み立てて、それで売っているわけです。まるで身体の部位を組み合わせて作られたフランケンシュタインですね。わたしの妻の自転車もタイヤが異様に太い感じがする。

そういう古いものを何とか使い続ける、使えるものを使い続けるドイツ精神は尊敬しますが、それがそれほど安くなく、修理し続けなければならないのには閉口します。逆に、安いものをどんどんと買い換えていく日本は、ちょっと考え直さなければならないかもしれません。

2010年5月27日木曜日

Kirschblüten -Hanami- (サクラ ー花見ー)という映画

ドイツに来てから、会う人会う人から「Hanamiという映画をみたか?」ということを聞かれます。それって、ひょっとして北野武の「Hanabi」の間違いじゃないのと思いながら、聞いてみると、そうではなくドイツ人が日本に行く話だというのです。
ドイツ人が日本に行く話なら2000年頃に「Erleuchtung garantiert」(悟り 保証付き)という映画があり、それの間違いではないのかと聞いてみると、どうも違うらしいのです。
Erleuchtung garantiert (悟り 保証付き)というのはドイツ人の兄弟が「悟り」を求めて、日本の禅寺に来るという物語です。

後で分かったことですが、Erleuchtung garantiert(悟り 保証付き)もKirchblüten -Hanami-  (サクラ −花見−)も同じドーリス・ドョリーという監督の作品でした。

あまり何度も言われるので、気になって昨日日本のTSUTAYAの宅配レンタルみたいなサービスを利用して見てみました。
ドイツのバイエルン地方に住む老夫婦。真面目で堅実で自分が住んでいる世界のことしか知らない夫と日本好きで日本舞踊にあこがれている妻。実は、医者から夫は癌で余命幾ばくもないことが妻に告げられます。妻は一度日本に行ってみたいと思っていたのですが、その思いを夫に告げますが、夫を説得することも出来ないまま、夫より先に突然死してしまいます。
愛する妻を亡くした夫は、妻が好きだった、そして妻が見たいと願っていた日本に単身やってきます。実は東京に彼らの息子が住んでいるのですが。妻が着ていたガウン代わりの着物と彼女が最後に着ていた服を持って日本にやってきます。全く言葉が通じない中、様々な日本の日常に出会います。最終的には妻があこがれていた(前衛的)日本舞踊を毎日公園で舞う18才の女性と出会い、片言の英語で会話しながら富士山が見えるところまでたどり着き、きれいに晴れた日の朝、妻の着物を着て、彼自身が舞を舞い、その富士山が見える湖畔で死んでしまいます。

亡くなった妻を求めて、日本まで来て、彼は何を発見し、何を受け入れ、どう変わったのかがテーマであると言えます。その中で一つのキーワードが「影」でした。18才の女性が「わたしが踊っているのではなく、わたしの影が踊っているのだ」と語る言葉があります。最後には湖に映った逆さ富士がそのテーマを象徴するようです。生きている自分と死んだ妻。妻がいることが当たり前の昔と妻がいないことが当たり前の今。どちらが光で、どちらが影なのか。終わりが始まりなのか。それとも始まりが終わりなのか。そんなことを考えさせる、とても良い映画でした。


サクラのほうは2008年に上映された作品です。こういう作品には日本に対する先入観、つまり外国人にとって興味深い日本のシーンがちりばめられていて、そういう偏見にはちょっとうんざりするところがあります。(まあ、わたしのブログもドイツ人が読めば、変なところに目がいっていると思われるでしょうけど)。もちろん、こういう外国人が描いた日本を舞台にした映画は日本ではなかなか見る機会がないと思います。

それは、ドイツ人やオーストリア人が「サウンド・オブ・ミュージック」も、ドレミの歌も知らないのと同じです。「フランダースの犬」の物語も、アントワープの人は知りません。もちろん「森へ行きましょう、娘さん。アッハッーハ♪」という歌はスイス人は歌っていません。

2010年5月24日月曜日

ペンテコステ+ビショップ=満員

昨日は、ペンテコステ(聖霊降臨祭)でした。大学教会である、ペテロ教会に行ってきました。礼拝は10時から始まりますので、いつものように9時30分頃に自転車に乗って家を出て、9時45分頃に教会に着くと、なんだかいつもとは違ってたくさんの人が教会の方へと歩いて行きます。
教会に入ると、ほとんどの席に人が座っています。固まって席が空いているところがあるので、そこに行ってみると、なんと説教者が見えない。別なところに行ってみると、そこは司式者も説教者も見えない。ようやく見つけた席は左端の後ろの席、パイプオルガンの真横。説教壇は高いところにあるので、かろうじて説教者は見えます。

そこに座ると、後から、目の前にいるブロックフレーテ奏者の付き添いの方が席を詰めてくださいといってこられました。ブロックフレーテ奏者は恩師のお連れ合いで、付き添いの方はその息子さんなので仕方なく横に詰めると、目の前には教会の大きな柱、この柱を見つめながら、またその柱の横から説教者をチラ見するよう感じでの礼拝となってしまいました。柱の右奥に見えるのが説教壇です。わたしの隣の二人は柱の陰で全く何も見えません。

ペンテコステ礼拝ということもありますが、説教者が以前ハイデルベルク大学神学部の教授で、つい最近までベルリン・ブランデンブルク州教会のビショップをされていて、EKD(ドイツ福音主義教会)の議長をされていたフーバー牧師でしたので、おそらく彼の人気がこれだけの人を集めたのだろうと思います。

それから、わたしの恩師ズンダーマイアー教授とそのお連れ合いが、礼拝の前日、土曜日に「二人で150才誕生日フェスト」を行いました(およそ100人のゲスト、わたしたちも参加していました。なんと夜の6時から12時まで)。この礼拝ではズンダーマイアー氏が司式をし、礼拝後にはペテロ教会のステンドグラスの解説をしてくれるので、そのゲストの多くの方も参加していました。ビショップ・フーバーもそのゲストの一人だったのです。

この写真はその誕生日フェストの風景です。一番手前に移っている白髪の男性は誰でしょうか。日本でも有名な新約学者です。今年の9月に日本に来られるそうです(写真をクリックして拡大すると名札が見えます)。
ペテロ教会の礼拝にも自転車に乗ってこられていました。


聖餐式は、大きな輪を3回に分けて作り、行われました。

まあ、ドイツの教会では珍しいことですが、ペンテコステ+ビショップ効果だったのでしょうか。

この教会のステンドグラスについてはいずれお伝えします。

2010年5月22日土曜日

やっと晴れ〜! 土曜の朝は、マルクトへ

ようやく晴れました。3週間ぐらい雨か曇り。気温も10度前後で、肌寒い毎日を過ごしていました。会う人会う人が、口々に、夏は一体いつ来るのかと嘆いていました。こんなに天気が悪いと本当にこころも体も落ち込んでしまいます。

今日、土曜日の朝、やっと晴れ〜!

土曜日は、ドイツ人にとっては大切な買い物日です。最近はだいぶん店の閉店時間が遅くなりましたが、なんといっても土曜日の夕方から、日曜にかけては店は一切閉まっていますし、土・日は、家族が集まる日なのでしっかり買い物をしておかなければなりません。

そして、なんといっても、明日の日曜日はペンテコステ、そして月曜日もペンテコステ月曜日といってお休みですから、3日間分ぐらいの買い物をしておかなければなりません。また、学校は今日から来週の日曜日までペンテコステ休暇ですから、家族そろって休暇に出かける人も少なくありません。大学はこの休暇とは関係ありませんが。学校に行っているこどもがいる家族は、どこかで休暇を過ごすことを考えます。

土曜日は、なんといってもマルクト(市場)の日です。ここのマルクトは、週に2回(水・土)の朝の7時頃から、町の広場(マルクト・プラッツ)で開かれています。

野菜、果物を中心に、肉、チーズ、卵、花、パンが売られています。活気のある雰囲気で、新鮮で、様々な種類の野菜や果物を見ているだけでも楽しいです。また、マルクトに売りに来ている店の人との会話も楽しみです。



いまの果物の主流はイチゴでしょうか。500gが500円ぐらいです。町のスーパーと比べるとすこし高めですが、やはり新鮮な感じです。





ドイツ人はリンゴが好きなので、いろいろな種類のリンゴが売られています。日本のリンゴと比べると必ずしも質がいいとは言えませんが、小ぶりで、気軽に食べられる日用食品です。1Kgが300円ぐらいです。先日行った役所の人もかじりかけのリンゴと水を机の上に置いて、仕事をしていました。





ホワイトアスパラも一時の勢いはなくなりましたが、まだまだ食べ頃です。ドイツ風の食べ方もいいのですが、これををゆがいてわさび醤油で食べると、何となく刺身のような感じがして、、、、。

チーズ屋さんも楽しいです。いろいろな種類のチーズがあり、どれにしようなかな・・・、迷ってしまいます。その横には、ハム・ソーセージなどもあり、これまた豊富な種類です。いろいろと考えたいし、新しいものも味わってみたいのですが、後ろには何人も並んでいて、グズグズしていると怒られるのでは(と勝手に)思ってしまい、緊張し、結局名前を知っているいつものものしか買えないことがあります。

本当は、堂々と店の人に質問して、長い時間かかっても、それはそれでわたしのたちの権利として、何の問題もないのです。違う種類のチーズを1枚ずつ注文して、1枚ずつ包んでもらうこともできるのですが、、、。



店の人も店の人で、お客と対等です。
今朝は、こんな一場面も、
客:「ハロー!(ちょっと)、さっきから30分は待っているんだけれど」
店:「今日はね、人が多いから、待ってもらわないと。30分待っているなんてありえないでしょ」
この会話はこの会話で終わりです。客は怒って違う店に行くわけではなく、そのまま買い物をし、店の人もそのまま応対しています。

横で聞いているわたしたちがはらはらして、わたしたちが代わりに「お待たせしてすみません」と謝りたくなってしまいます。なんて、日本人は気が弱いのでしょうか。


パンやケーキを売っているおじいさん・おばあさんのお店があります。どこかの農家の人でしょうか。

先週もここでケーキを買いました。気取った感じではありませんが、とてもおいしかったです。今の時期はイチゴのシーズンなので、イチゴケーキがおいしそうです。ぜひ買って帰りたかったのですが、今日は夕方、わたしの恩師の誕生日会に呼ばれていて、食べる・しゃべるの数時間を過ごすので、ケーキは控えておきました。

パンも素朴で、お手製のジャムも市販のジャムの空き瓶に入れて売っています。

わたしたちのお気に入りの店の一つに、鶏肉屋さんがあります。スーパーで売っている冷凍肉は本当に安く、骨付きもも肉が1つ150円ぐらいですが、ここのはすこし高めです。それでも鶏まるまる1羽が600円ぐらいで、とてもおいしいです。

明日の午後はお客さんが来るので、楽しみです。なんといっても、人と話をするということが一番のご馳走ではないでしょうか。

日本もそうですが、スーパーでは一言も話さなくても買い物ができますが、マルクトでは会話つきの品物を買うことができます。その思い出と共に食べる食事は格別です。

2010年5月18日火曜日

Kindertaufe Taufe(タウフェ・洗礼)といえば幼児洗礼

先日の日曜日に、礼拝の中で幼児洗礼式が行われました。

ドイツでは、洗礼といえば幼児洗礼で、成人洗礼はほとんどと言っていいほどありません。幼児の時に洗礼を受け、14才になると1年間の堅信礼準備クラスを終えた後、堅信礼(信仰告白式)を受けるのが一般的です。この堅信礼準備クラスにも、幼児洗礼を受けていない生徒も来ているのですが、彼らも堅信礼の数週間前に(幼児)洗礼を受けてから、堅信礼にのぞみます。

洗礼式は、これはまさに家族的な行事です。昨日の洗礼式には、2人の1歳児のこどもが洗礼を受けに来ていたので、それぞれの家族が礼拝堂の前3列ほどに座っていました。結婚式の親族を想像してただければいいと思います。Täufling(トイフリング)はまるで花婿や花嫁のように着飾っています(こういう服が売られているわけです。まるで日本の初参りや七五三のような感じです)。祖父母、叔父、叔母、いとこ、親しい友人などもスーツやドレスを着て出席しています。おそらく礼拝の後、親族そろってどこかで食事をするのでしょう。

さて、洗礼式のなかで、なかなかいいなあと思うことがいくつかあります。

まずなんといっても、「ハレ」やかな雰囲気です。洗礼盤が花できれいに飾られることもあります(写真は別の教会のものです)。厳粛さということも大切だと思いますが、「洗礼の喜び、受け入れる・歓迎する、新しいいのち」ということをどのように表現し、またそれを感じ取るかということも大切だと思います。花は、いのちの象徴でもあり、喜び、祝うということを表すものとしてとてもいいのではないでしょうか。


その洗礼盤の中に、兄弟の一人が水を注ぎます。こういう協同性、「共に」ということも大切にします。5年ほど前に、日本からドイツに行ったときに、知り合いの牧師から日本の水を持ってきて欲しいと頼まれました。洗礼式に様々な地方から親戚が集まってきて、それぞれの土地の水を持ってきて、洗礼に対する思いを述べながら洗礼盤に水を注ぎたいというのです。わたしも日本から来てその礼拝に参加しているものとして、その輪に加えてもらい、水を注ぎながら、一言お祝いの言葉を語ったことがあります。(ただ、飛行機に液体を持ち込むのは禁止されていたので、「伊右衛門」のペットボトル容器だけ持っていき、ドイツで水を入れさせてもらいました。あくまでも象徴ですから)。



こういう協同性ということに関して、もう一つ。この洗礼の証人が、受洗するこどもに対して祝福の言葉を語ります。
今回は、先ほどのお兄ちゃんが祝福の言葉を読んでいました。


洗礼が終わると、牧師から受洗記念ロウソクがわたされます。これは家族が事前に用意しておきます。自分たちで大きなロウソクを買ってそれに飾り付けることもできますし、また既製品も売っています。この教会では木の十字架も渡されていました。

このロウソクは、受洗記念日にそれぞれの家庭で灯されるそうです。

日本の教会でも、何年目かの受洗を記念するということを考えてはどうでしょうか。

今日洗礼を受けたこども、またその家族が再び教会に来るのは、13ー4年後の堅信礼の時かな?

2010年5月17日月曜日

オルガンの奏楽を楽しむ

ドイツの礼拝に出る楽しみの一つは、パイプオルガンの奏楽を聞くことです。
礼拝の最初の前奏、そして最後の後奏はもちろんですが、会衆が賛美歌を歌う前に弾く前奏、そしてその伴奏、それからその賛美歌の後奏をオルガニストがどのように用意しているのかということも楽しみです。

最初ドイツの礼拝に出たときに、賛美歌を歌うというときに、オルガニストがなにやら弾き始めたのですが、いったいこの人は何を弾いているのだろうかと思っていると、その演奏が一瞬途切れると、会衆が賛美歌を歌い始めたのにびっくりしました。
これから歌う賛美歌のメロディーを一回弾きますから、会衆のみなさんご準備くださいというのではなく、オルガニストが、その曲の旋律を織り込んで編曲した(わたしにとっては全く別の曲かと思えた)前奏を弾くわけです。

その前奏に段々慣れてくると、賛美歌の前奏であるということ気がついてきます。それぞれのオルガニストの腕の見せ所です。前奏だけではなく、伴奏も、また歌い終わったあとの後奏もアレンジしています。オルガンはオルガンで、会衆は会衆で、それぞれの役割を担いながら、一つの賛美歌ができあがっているという感じです。

礼拝の賛美歌にそんな「装飾」はいらない、大切なのは神さまを賛美するこころですといわれる方もあると思います。もちろん、そういう考えもありますし、神学的に何が正しいということはありません。そんなオルガニストでないと賛美ができない、ドイツの方が本物だということでは全くありません。
オルガニストによっては、ちょっとあなた出しゃばり過ぎじゃないのというような前奏を用意してくる方もいて、ちょっと辟易することもあります。

むしろ賛美において「一歩退く」ということを感じるのです。一度この奏楽に親しむと、自分が歌うという意識が退き、オルガンも、会堂も、いろいろな礼拝堂の中のシンボルも、光も、陰も、そして会衆も一緒になって神を賛美する一つの「響き」を創り出しているのだという気持ちになってきます。
百聞は一見にしかず。ある賛美歌の前奏と1番だけを聞いていただいて、どのような感じなのか味わってみてください。残念ながら、前奏の最初の方は雑音が入ったので、カットしています。また、この賛美歌は礼拝の一番最初に歌ったものですから、礼拝全体の前奏も兼ねたものであり、若干普通の賛美歌の前奏よりも長めです。




まあ、この大きな礼拝堂にしては少ない会衆で、決して賛美の声が十分であるとは言えないのが、残念な点ですが。ドイツ全体で賛美歌を歌える人が少なくなってきて、葬儀でも賛美歌を歌う代わりに、オルガン、フルート、バイオリンによる演奏が行われるというのが現状です。